ストレス解消球を手に入れた



 とにかくその日はイライラしていた。
決定的に何かがあったわけではないが、日々の些細なイライラやストレスがたまり、もはやなにもかもが私の気に障るようになっていた。
この気持ちは酒を飲んだらよりひどくなるかもしれない。
そう思いながらも、路地の奥、神社の裏、寺の横、教会の向かいの地下にあるバーの看板に誘われて、狭い階段を下りた。

 こんな場所だから当たり前かもしれないが、客は私一人だけだった。
「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」と愛想のいい落ち着いたマスターが、ヒゲの奥に微笑を隠して着席を促した。
私はカウンターの、真ん中でもない、しかし端っこでもないイスを選んで腰掛けた。
「ソルティドッグをください」
作法などなく、好きな飲み物を注文する。
マスターが手早く作ってくれたそれが私の前に出てきたとき、少しストレスが和らいだ気がした。

「イライラなさっているようですね」
マスターがそういうぐらいだから、私の動作にも現れているのだろう。「そうですね、イライラしています」
マスターのヒゲは微笑んだ。
「お聞きすることぐらいしかできませんが、イライラをお話になってはいかがです」
私はその言葉に甘えて、近頃のイライラについて「些細なことばかりですがね」と前置きをして話し始めた。


 私は自分で思っていたよりもストレスを抱えていたようだ。つい先ほど会ったばかりのこのマスターに、
グチやイラついたことをどんどん語っている。
マスターは話の腰を折るようなことはせず、解決法のアドバイスをすることもなく、ただ聞いてくれた。ありがたい。
これですっきりするかもしれない。


「つまり、家族は自分をないがしろにして好き勝手しているように見える。
同僚の相談にのったけどアドバイスどおりにやろうとする動きが見えなくてイライラする。
テレビの番組が昔好きだった頃とすっかりかわってしまった。
飼い犬の具合が悪くて心配。
政治や経済の予測が悪く感じられて、将来が不安。 こんな感じですね」

「そうなんです。ああ、まったくそのとおりですよ」
マスターが私のグチをすっきりまとめてくれた。ちゃんと聞いててくれた証に思えて、アドバイスをもらうよりも嬉しかった。
これだけグチがかたちになれば、悩みを解消することもできるかも。自分の心の整理になった気がする。
私は良い飲み屋を選んだのかもしれない。ナイスチョイスをした自分エライ。気持ちがアガッてきた。

「マスターはストレスをどうやって解消しています?」
軽い話題として聞いてみた。あの微笑、私も手に入れたい。

「ストレス解消球を持っているのですよ」
「ストレス解消球?」
「はい、ストレス解消球……」


「それは、こちらでございます」
マスターはカウンターの下にある引き出しを開けると、明るく輝く不思議な球をひとつ取り出した。
いくつか同じものがあるようだった。
「ひとつ、さしあげますよ」
ストレス解消球はあやしげに光って、マスターの掌の少し上でぷかぷか浮いている。

「やや……それはなんですか? これを、どうするのですか?」
私は球を受け取って、とまどいながらマスターに聞いた。
「これはですね、あなたの思うとおりに動く球なんですよ。本当に、思うとおりに動きますよ。加速も停止も、曲がることもお手の物。
ただし物理的な質量はないので、この球でなにかすることはできません。とにかく思うとおりに動かせる球なのです」
「はあ……すごいですね」

「ほかのなにが思うとおりに行かなくても、いつもこいつだけは思うとおりになってくれます。公園で、部屋で、職場で。
あなたが想像しない余計なこともしません。この癒しがあなたにはぴったりだと思いますよ……」


 私はその日から、このストレス解消球を転がして、飛ばして、追尾させて、曲がらせて、戻ってこさせて遊んだ。
なんと思い通りになる球だろう。
この球を、私はいつもポケットに入れている。
職場でも、家でも、イライラすることがあったらこの球をヒョーイととりだして、ギュンギュン飛ばしたり、ふわふわさせたり、
よーしビルの間を抜けたらきりもみ回転して戻って来い、よくやった! ……とコントロールしてストレスを発散している。
私以外には見えない球だからいつでもどこでも取り出せる。

 すべてコントロールできるということはなんと楽しく、癒されることだろう。
私のイライラは、他人も自分も、思ったとおりに動かせないことからきていたのだ。
この球は私を私以上に裏切らない。


 路地の奥、神社の裏、寺の横、教会の向かいの地下にあるバーに入るところから私の妄想だけど、
いい球を手に入れたことは間違いないんだ。


end

(c)AchiFujimura 2016/6/14




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