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我輩はエビである


「我輩はエビである。しかし海老ではない」
多分、彼が自伝を書いたらこういう始まりになるんだろうな。

 猫好きの私だけど、家で猫を飼っていたことはない。
でも一度だけ、実家で猫とすごしたことがある。それが今回の話。

 3月のある日、実家の庭にある小さな井戸から犬の鳴き声が聞こえた。
不思議に思って父が井戸を覗けば、なんとそこに犬が一匹はまってる。
首輪をしていたので、そこに「ガジ」を引っ掛けて引きずりあげると、大きなポインター。
誰かが猟につれてきて、はぐれちゃったのかな?そのポインターは、引きずりあげたあと特にどこにも届けなかったので、 うちの近所を数日さまよってから姿を消した。

 また数日後、今度はどこからか猫の鳴き声がする。
まさか、と思いながらも先日のことがあるので、井戸を覗いてみると……
そこに白い仔猫が一匹はまってる。
またも引きずりあげてみると、猫は犬ほど元気が無く、今にも死にそうな声で鳴いている。
うちでは猫などの動物を飼わないことになっているので、その猫も放っておいた。
しかし、猫のようすは尋常でない。数日、うちの庭から離れようとせず、ずっと鳴いている。
弱っているんだろうと鳴き声でわかるけど、弱ってる割に鳴くのをやめない。
猫はひどい下痢をしていて、からだを引きずって這うように動いている。

 あまりにかわいそうなその姿に、遂に家族の心も動いた。
母親がご飯の残りを与え、私が暖かめな布を敷いた箱を用意し、猫をそのなかに入れた。
実家の、長野は3月だとまだまだ寒い。雪が降るほど寒い。サクラはつぼみすらついていない。
元気になったら、きっと猫もどこかで生きていくから、それまでの間庭においてやろうという家族との約束だった。

 死んでしまうんじゃないかとまで思っていたのに、猫はみるみる回復した。
私が最初に用意してあげた箱は気に入ったらしく、丸くなって入っている。
家族が団欒のひと時をすごす、居間の出窓と屋根の間にある隙間にもよく入っていた。

夜、そこに猫がいると、すりガラス越しに猫のシルエットが見える。
「みてごらん、またあの子はあんなところにのぼっているよ」
「それ、伸びをした」
家族の会話に自然に猫が入ってきた。

 私が高校から帰ってくると、猫は急な坂道になっているうちの庭を駆け下りてくる。
ウニャニャウニャウニャ、となんか言いながら走ってる。
あんまり急ぐので、転ぶんじゃないかと心配するほどの速さ。からだも斜めになって走ってる。
凄く嬉しそうに、私の足の周りをグルグルまわって、目が合えば飛びついてくるし、すぐひざの上に乗りたがった。

「ただいま、エビ」
いつからか、私が猫のことをエビと呼んでいた。
家族も皆いつのまにか、エビと呼んでいた。
「あんたもかわいそうに、猫なのにエビなんて名前付けられちゃって」と母親が猫に話し掛けた。
海老じゃない。海老じゃないんだよ。
あくまで「エ」にアクセントをつけるので、あの海老じゃないんだけど、みんな「猫なのに海老?」と言う。
名前の由来はもう、どうでもいい。とにかく猫の名前はエビになったんだ。

 猫は家にいれてはいけない、という約束があって、
庭にいるぶんには追い出さないけど、家に入ってきたらすぐ追い出すことになっていた。
エビは遠くには行かない。遊ぶ場所も、庭からそう離れていないところばかり。

 お出かけの日には、エビに話し掛ける。
「エビ、どう?今日の洋服、似合ってる?」
「ニアウー」
「お父さん、聞いた!?エビが洋服似合うって!」
私が冗談を言ってはしゃぐと、父親はエビに向かって、
「エビはそんなことを言ったかい?エビ、もう一度言ってごらん」
「ミヤオー」
「阿智……違うじゃないか、エビは宮尾すすむの名前を言っているだけだ。
 しかし、エビはどうして宮尾すすむを知っているんだ」
エビをはさんで笑うこともたくさんあった。

 私が学校に行ってる間、エビとよく一緒にいたのは祖父だった。
祖父は、「猫なんて」関せずと言った感じだったのだが、エビが擦り寄っていくので自然と一緒にいたようだ。
そんな祖父が、急に具合を悪くして入院した。
6月も中旬で、暖かくなった頃だった。
うわごとのように言葉をつぶやくようになって、皆が交代に付き添う毎日が続いた。

ある日、病院のベッドで祖父がつぶやいた、
「また猫が出窓にのぼっているぞ」
「あそこに影が見えているじゃないか」
 祖父が亡くなったのはそれからすぐだった。


 急にあわただしくなり、自宅は葬儀の準備で忙しくなった。
田舎のほうでは、縁側を開けっ放しにして、通夜や葬儀に訪れる人を迎えるようになっていたので、
当然うちでも縁側を開けっ放しにしたのだが、そうするとエビが入ってくる。
エビはまっすぐ祖父のほうへ向かう、何度私が捕まえて遠くまで連れて行ってもだ。

何度もエビが私のほうを見る。
「お願いだからおとなしくしていて」
私もきつく、エビに言い聞かせた。エビにはわかってもらえなかった。

集まった大人たちが、猫をどこかにやったほうが良いと相談をはじめた。
私は反対したけれど、どうしようもなかった。
うちで飼ってる猫じゃない。

親戚が、エビを車に乗せた。
「遠くに、連れて行くから」
私は泣きながらさらに反対した、これ以上なにかと別れるのは嫌だった。
でも、結局どうにもならなかった。

親戚が戻ってきて、「遠くに連れて行ったから」「車を追いかけて、走ってきてたよ」
と言った。
「きっと、戻ってくるよ」「戻ってきちゃったら仕方ないでしょ?」と私は返事をした。
「戻って来れないよ、猫じゃ無理な距離だ」親戚は言った。
「俺の知ってる、猫好きな人の家の近くだから、もしかしたらそこでかわいがってもらえるかもしれないって思うんだ」


エビは戻ってこなかった。
エビに似た猫を見た話をあちこちで聞いた。
でもどれも違うんだ。エビの目は、片方が金色で片方は薄い鮮やかなブルーなんだ。
エビに似た猫は、白いだけでエビとは違う猫だった。

あのあと、どこでどうしたんだろう。
お葬式がなかったら、ずっとずっとうちの猫だったのかな。
たった三ヶ月の間、一緒にすごした小さな白い猫のことを、今でも6月になると思い出してしまうのだ。
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