その日は平凡な6月17日でした。 会社員の山田氏にとっては特に目立った事件・事故もなく、 今日も会社では書類を書いたり判を押したり、お茶を飲んだりしてのんびり仕事をしました。 とくに判子を押す作業は大好きなのです。 山田氏は平凡な人生でした。「自分が人とは違う」と思ったことは一度もありません。 自分に起きたことは、大抵どこかで誰かが体験していることです。 何事もなく仕事を終え、みんなと「ごくろうさま」と言い合って帰路につきました。 家に帰れば、平凡な妻と子どもが待っています。 おいしい食事を食べて、暖かいお風呂とふかふかのお布団がいつものように山田氏を待っていました。 明日も普通でありたい、と思いながら17日を終えようとしたときです。 枕もとに静かな光を感じました。 「山田氏」 「山田氏、寝ながらで良いから私の話を聞きなさい」 山田氏はおとなしく言うことを聞きました。 枕もとの声はささやきます。 「あなたは、突然枕もとで声がしても驚かないのですか」 山田氏は目をつぶったまま、小さな声で 「私におきる程度のことは、きっと誰にでもあることなのでしょうから、大して驚きもしません。」 とつぶやき、微笑みました。 光は言いました、 「ところが…あなたにこれから、人類でまだ誰も経験したことのない出来事が起きるのです」 「驚いてくださいね。ひとつだけ、あなたの願いをかなえてあげることになったのです」 山田氏は目をつぶったまま、笑顔を見せました。 「それはすごい。本当に、驚きました。」 山田氏の声は相変わらず押し殺したような声なので、周りで寝ている家族は誰も気がつきません。 まさか、こんなチャンスがやってくるなんて! 「さぁ、山田氏、あなたの願いを聞かせてください」 光がうながします。 「その前に、一つお聞きしてもよろしいですか。どうして私にそのような幸運を与えてくださったのですか。」 光は弱まったり、強くなったりしています。 山田氏の閉じたまぶたにも、それは伝わってきます。 「あなたが一番、平凡だったからですよ。平凡なのに、普通を良く知っていらっしゃる。 普通の人は平凡な幸せになかなか気がつかないものなのですが。」 「さぁ、あなたの願いを聞かせてください」 光がいっそう強くなりました。 「今日を」 「平凡な6月17日を、判で押してください」 山田氏がうっすらと目をあけてつぶやきました。 「今日はとりたてて不幸なことがなく、私は平凡な幸せを感じました。 私にとって怖いのは、この平凡が消え去ることです。 ソレはなにがきっかけかわからない。でも、いつかは今日でなくなるでしょう。 出来れば今日のこの平凡を、明日も…その次の日も…安心して迎えたいのです。」 光は静かにまたたきました。 「判で押せば、毎日の変化はなくなってしまうのではないか? そんな中でも、あなたは平凡の幸せを感じ取ることが出来るのか?」 山田氏はまた目を閉じました。 「私は、判子が好きです。押せば必ず、同じ模様が現れる。 でも判子はそればかりではありません。にじんだり、かすれたり、ちょっとゆがんだり。 基本は変わらないのに、小さな変化があります。 そんな判子を毎日押し続けて、私は判子がとても楽しく幸せなモノだと気がつきました」 だから、私は判子になりたいのです。 いつかゴムが磨り減って、長い眠りにつくでしょう。 でもそれまでは多少にじんだりかすれたりしながらも、 同じ模様をきざんでいけたら幸せだと思うのです。 「わかりました。あなたの願いは確かに聞き届けました。 その願いは必ずかなうでしょう。山田氏、おやすみなさい。 明日目がさめたら、私と会ったことは忘れているはずです」 光がゆっくり弱まっていきます…… それにつられるように、山田氏も眠りに落ちました。 光は結局、願いをかなえる力を使いませんでした。 山田氏は放っておいても、幸せな、判で押したような人生を送ることでしょう。 力を使わなかった光はまた眠りにつきます。 実は100年前にも。200年前にも。 この光は山田氏のような人間のもとへ、願いを聞きに出かけています。 力を使わなかったおかげで…また100年、光は消えずに眠り続けることが出来るのでした。 end
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