成虫
僕の友達の「バグやん」はジム仲間だ。
ボクシングなど決まったスポーツをするわけじゃないけど、筋肉質な体にあこがれてジムで運動した。
高校の夏休み、バグやんと僕はどれだけ鍛えることが出来るか競争することにしていた。
夏休みも中ごろになってしまった。
僕の体には目立った変化は現れていない。
一方、同じような運動をしているはずのバグやんの筋肉は目立って締まってきた。
「どうだ、すごいだろ」
バグやんが僕に向かって、ボディビルの真似事のようなポーズをとる。
結構、サマになってきていることに素直に驚いた。
特に背中の筋肉・広背筋がとても発達している。どういう運動で背中の筋肉がこんなに発達したんだろう。
「すごいよ。まずいな、このままだと僕の負けかよ」
僕は急にペダルをこぎ始めた。
「馬鹿だな、疲れるだけだからやめとけって。」
そんな僕をみて、バグやんが腹を抱えて笑った。
バグやんの筋肉に驚いてから数日後。
人より早い時間からジムでこっそり鍛えていた僕の元に、バグやんの母親が尋ねてきた。
なんでも、昨日からバグやんが寝込んだまま意識がもどらないらしい。
母親は青ざめて、友達の僕からも呼びかけてもらえないかとすがり付いてきた。
僕も友達の一大事に、早速ジムの先生も連れてバグやんの元へ走った。
通された部屋では、バグやんが普通のベッドに横になっている。
周りには医者、看護婦の二人、バグやんの父親。
僕もベッドに駆け寄った。 「バグやん、どうした」
バグやんの肩に触れると、異様に硬いのが気になった。
「まったく原因不明です。寝ているようでもありますので、すぐ命にかかわることもないと思われますが…」
医者が静かに説明してくれた。 「バグやん」
僕は眠っている彼を見つめる。
僕たちが来てから数十分後、バグやんの体に異変が起きた。
今まで静かだったバグやんが突如暴れだし、布団を跳ね除け、体を丸めてがくがくと震えはじめた。
母親はうろたえてベッドにすがりつき、父親や医者は驚きで固まってしまっている。
三分ぐらいそんな状態が続いただろうか。バグやんはまた静かになった。
皆、息を呑んでベッドの上のバグやんを見つめる。
まるで胎児のように、丸まった姿でベッドに横たわっている。
こないだ僕に見せびらかしていた背中の筋肉は、やはり見事に発達していた。
「すごい飛翔筋だ」
ジムの先生がそうつぶやいた。「広背筋じゃないんですか?」僕が不思議に思ってそう聞いたが、先生はじっとバグやんの背中を見つめているだけだった。
「いや……飛翔筋だろう。よく見なさい」
先生に言われるまま、そこにいた全員が先生に指差されているバグやんの背中に注目した。
翅が生えてきている。
「羽(はね)だ!」
僕は驚いて声をあげた。医者も信じられないといった様子で、まじまじと眺めている。
「羽(はね)じゃなくて翅(はね)だ……みなさい、翅脈(しみゃく)に血液が流れ込んでいる」
バグやんの翅の根元から、赤い血液が網目状に翅へと流れ込んでいく。
「あの血液が固まったら、翅の完成だ……」
先生がつぶやいた。
翅が乾ききった頃、バグやんも目を覚ました。
まったく異常は無い様で、みんなの心配そうな顔にきょとんとする始末。
翅が生えたことにはバグやん本人も驚いていたが、ひとまず元気そうな顔に安心して、僕は家へ帰った。
翅が生えてからバグやんは、ジムに来ることが少なくなった。
街を飛び回って、女の子と遊んでばかりいる……と噂が聞こえてくるようになった。
翅が生えるほど筋肉を鍛えたことは尊敬していたのに、途中で投げ出してナンパに走るなんて。
僕はバグやんに失望した。僕だけは最後までやり遂げてやる、と、ペダルをこいだ。
あの翅の生えた日から一週間ほど経ったころ、バグやんがジムに顔を見せた。
今日もあの立派な翅で飛んできたみたいだ。
「よお、こないだは世話になったな」
バグやんが笑顔で話し掛けてきたけど、僕はそっけなく挨拶をしただけでまたバーベルを動かした。
僕の気持ちを察したのか、バグやんはそれ以上言わずにうつむき加減でアレイを拾った。
その日のトレーニングも終わろうとしていた頃、ジム内は騒然とした。
バグやんが突然倒れて動かなくなったのだ。
先生がバグやんの頭を抱えて必至に呼びかけている。
僕も驚いて駆けつけ、バグやんの肩に触れる。
硬くて冷たい……
「もう、だめだ……」
先生がバグやんの頭をそっと床に置いた。
誰かが呼んでいた救急車のサイレンが聞こえる。近づいてくるはずのサイレンも僕からは遠ざかって、ただ静かなバグやんの姿だけが目に映っている。
「成虫になってしまったら」
先生の声にはっと我に帰った。バグやんは救急隊員に担架へと乗せられていた。
「命は短いもんなんだな」
先生がつぶやいた。
夏休みも終わりに近い頃だった。
僕はジムをやめ、新学期に向けて準備をはじめた。
今年はいつもより、夏の暑さが気にならなかったことに気がついた。
セミの声が一瞬止まった。
「バグやん」
セミの声がまた、うるさいくらい聞こえてきて、僕はほっとため息をついた。
end
(c)AchiFujimura