その日に何があったのか、いまでは知るすべもありません。
私は朝起きたとき、まだ夢の中にいるのだと思いました。いつもの寝室ではないけど、見覚えのある部屋、
真新しい部屋の壁の色、古いアイドルの新しいポスター。混乱しながら私は、隣に寝ている夫に声をかけました。
「ねえ、あなた」
その若い声に自分で驚き、寝室には私しかいないことを知り、手の幼さにも気がついたのです。
私は若くなっていました。
本当の私は四十六歳、それまでにいろいろあったけど、自分の人生はお気に入りでした。
嫌なこともステキなことも、全てが今の自分に必要だったんだと感じていたし、
夫と私は互いに愛し合っていたし、子供は二十歳になって家を出たけど、先日も母の日に
電話で元気な声を聞かせてくれたとてもよい子です。
「あの頃に戻れたらな」という、誰でも一度は考えることは、私も思ったことがあります。
でも切実に願ったことはありません。今の私は何歳ぐらいなのでしょう、学習机の日記の最後のページを開きました。
「高校ニ年生の六月七日…十六歳か」三十年も昔です。これからどうしたらいいのか、まだ混乱からさめずにぼうっとしていました。
「朝ごはんですよ、起きてるんでしょう?こっちへ来なさい」
懐かしい母の声が聞こえます。母は今でも田舎で暮らしていますが、もうこんな元気な声は出しません。
十六歳だった頃を思い出しながら、先に制服に着替えて、食堂へ急ぎました。
「どうした、今日はすこしおそかったんじゃないのか」
十二年前に亡くなった父の、ぶっきらぼうな声が朝刊越しに聞こえます。
「どうした」 「ううん、なんでもない」私は目を袖でグイグイとこすって、食卓に着きました。
どうやら、この時間の逆行に気がついているのは、私だけのようです。
学校の友達も、あの頃のままです。懐かしくて嬉しい反面、不安で震えてしまうのでした。
「よう、今日もいつものところで待ってたのに、どうしてこなかったんだよ」
後ろから男性の声が聞こえて、慌てて振り返りました。十六歳六月当時に付き合っていた彼氏でした。
「あ、そうだった……ごめんね」
謝りながら、私は気がつきました。いまさら夫以外の男性と付き合う気にもなれないし、夫にすぐにでも会いたい。
でも、今すぐ会いに行っていいものだろうか?夫から聞いた話だと、この時期には私以外の彼女と付き合っているはず。
もしかすると、私の未来を取り戻すためには、全て同じようになぞるしかないのかもしれません。
少しでも未来を変えてはいけない。ずれてしまったら、私の人生は全く変わったものになってしまいます。
愛する夫と子供にもう一度会うためには……やり直したい失敗も、やり直してはいけないのです。
それからはつらい日々でした。
事故で死んだ友達にも、「事故にあわないように気をつけてね」と言うのが精一杯、
受からなかった第一志望の大学にも、わざと落ちました。
親友とも思い出の通りにけんかをして、絶交したし、
夫以外の男性とも、思い出の通りお付き合いしました。
時には本当にこれで良いのか不安になって、涙を流しました。
そして、二十歳の四月二十日。
大学のサークルに新しく入ってくる、年下の男の子が夫になる人です。今日、会えるはずなのです。
ドキドキしながら、でもあのときのように興味のないそぶりで、新入生を待ちました。
先輩の声が頭の上から降り注ぎます。「今日からうちのサークルに入ってくれる新入生を連れてきたぞ」
昔、夫に聞いた話では「はじめてあったときには無愛想で、不機嫌な顔をしてたから、印象は良くなかった」と言われましたし、
その通りに振り返ったはずです。
でも、まだ幼さの残る十八歳の夫は、複雑な表情にこらえきれない笑みを浮かべながら、
涙目で私のほうだけをじっと見つめているのです。
私もこらえきれなくなって、下を向いてしまいました。
「よ、よろしく」 ようやく挨拶だけを言って、その日はお互いに触れることもなく終わりました。
次の日、夫と二人きりで話が出来る機会がありました。
周りに聞こえないように小さな声で、お互いを呼びました。「おまえ」「あなた」
「未来がずれる音がするたび、好きだった四十四歳の自分に会えない気がして怖かった」
「私もよ」
「四十四歳の自分に戻るために、いろいろなものを犠牲にしてしまった」
「私もよ……」
そっと上着で隠してから、手をつなぎました。
「子供に会えるのは六年後ね。まだまだ先だわ。
……うまく六年後に会えるかしら」
「……それは、難しいかもな」
end
(c)AchiFujimura 2003/5/16
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