3ケなしタバコ

「もしもし、願い事をひとつだけかなえますよ」
会社から家へ帰る途中、街灯のあかりの下で、僕に声をかけてくる人がいました。
寒い冬の日で、早く家へ帰りたかったので、正直なところイライラしたのですが、
振り向くとそこにはいかにも「願いをかなえてくれそう」な風貌の老人が立っていました。

 長いひげ、長い髪は白く輝き、ローブのような簡素な布をまとい、頭のあたりはなにやら光っています。
「僕はなにもしてないけど、願い事をかなえてくれるんですか?」
僕が半信半疑で聞いてみると、老人は
「平等だからね、何もしていなかったというあなたにも、権利はあるのだよ」
と目を細めて微笑みました。

「そうだなぁ、でも特に不幸なこともないし、みんな健康だし、富豪になりたいわけでもないし」
「なにか、欲しいものなどはありませんか。どんなものでも差し上げることが出来ます」

 僕はしばらく考えて、暗い空にいろんなものを思い浮かべては消して、腕を組んでいました。
はっと思いついたすてきなアイディアに、われながら感心して、さっそくその考えを伝えることにしました。
「タバコが欲しいな。僕はタバコを結構吸うんだけど、周りには煙たがられるし、奥さんは健康を気にするし、
実際にお金もかかるからね。そういうのを全部解消してくれるようなすごいタバコが欲しいな」

 神様はうなずいて、すっと手を動かしたかと思うと、いつのまにか小さな箱が手のひらの上にありました。
僕は差し出された箱を受け取りました。
不思議な光を内に秘めた、キラキラと輝く透明の箱です。その中に火の付いたタバコが入っています。
長さはちょうど吸い始めたころぐらいで、九センチ程度でしょうか。

「そのタバコは吸っても減らないよ。味はあなたが一番好きと思える味にそのつど変化する。
ただし、そのタバコは他の人には見えない。つまり、煙もタバコも周りには見えないから、
嫌がられることもないだろうし、実際に副流煙の害もない。
あなたの健康も損なうおそれはありませんので、喫煙マナーは守る必要がない」

「素晴らしい!」
僕は指を鳴らしました。
「いままで、『ケイザイの負担』『ケンコウの被害』『ケンエンカ』の3ケに悩んでいたけど、
このタバコならその全てを気にする必要がなくなるわけだ!ありがとう、あんた神様だ」
僕が喜ぶ姿を見て、老人は何度もうなずき、次第にその存在を薄くして、消えていきました。
不思議な体験は終わり、僕の手には素晴らしい「3ケなしタバコ」が残されたわけです。


「なにやってるの?」
今日こう聞かれるのはもう七度目です。他人には見えないタバコを吸っている僕の姿は、
傍から見るとおかしく映るようです。
「新しい禁煙作戦さ、こうやって吸う真似をして気持を紛らわせるってヤツ」
「へえ……そんなの効き目あるのかしら」
みんな頭をかしげましたが、そのうち慣れたようで、家でも職場でも、誰も僕の「吸う真似」を
気にしなくなりました。


 それから3ヵ月後には、「吸う真似」すらしなくなった僕がいました。
煙たがられることもなく、自分の健康にも害のない、へることもないタバコは夢のようだと思っていました。
でも、不思議とそんなタバコは続かなかったのです。

火をつけたばかりなのにややこしい電話が鳴って、泣く泣くもみ消した長いタバコ。
いつか健康じゃなくなったらどうしようという不思議な未来のビジョン、
吸える場所を探してきょろきょろしてた公共の場所……
それらのギャンブルに似た成分が、このタバコにはなかったのです。

僕がタバコを吸わなくなっても、タンスの中で赤く燃え続けていた「3ケなしタバコ」は、
いつのまにかその火を絶やして、暗く横たわるだけになっていました。

end

(c)AchiFujimura 2004/2/14