電車酔いの男

 私は電車に酔いやすい体質です。
会社の男性の中で車の免許を持っていないのは私だけなのですが、乗りものには滅法弱いのです。
酔い止めの薬を飲んでみましたが、全く改善しなかったので、色々な方法を試してみました。
梅干を食べてみたり、朝ごはんは軽いものを食べるようにしたり、お茶を飲んでみたりしました。
ところがどの方法もたいした効果はなく、毎日通勤で電車に乗るのが憂鬱で仕方ありませんでした。

 ある日、ニ歳の娘に買ってあげていた絵本を一冊持って、電車の中で読んでみました。
するとふしぎなことに、その日は全く具合が悪くならなかったのです。
私はこのジンクスにすがりつくように、もう何度も読んで飽きてしまった絵本を毎日読み続けました。
数々の本を試してみましたが、この絵本ほど酔わない本は他になかったのです。

 今日も当然のように、電車のロングシートに座ると、絵本を開いて眺め始めました。
朝のラッシュとは逆方向の電車なので、この車両にはほとんど人がいません。
私はゆったりと、ロングシートの真ん中あたりに座っているのですが、
ある朝ふと気がつきました。絵本を読んでいる目線の先に、いつも同じ靴とズボンがあるのです。

 少し顔をあげると、二十代前半ぐらいの男性でした。
坊主に近い短いヘアスタイルで、赤いTシャツを着ています。
ジーパンをはいた足を大きく広げて座っており、手は両膝の上で硬く握られています。
そして、見下ろすように私をじっと見つめているのです。

 たまに姿勢を変えるようですが、私のほうをみていることには変わりありません。
きづけば、毎日その男は私の前に座っています。車両に誰も乗っていないときでも、彼は必ず私の前に座ります。
私のほうが先に電車へ乗るので、彼があとから座席をわざわざ選んでいるのです。
車両を変えても、彼は必ず車両を越えて探しに来て、私が見える場所に座っているようです。

 ある日、私が乗っている車両にたくさんの学生が乗り込んできました。課外学習でしょうか、制服を着ていて、
まだ中学生ぐらいです。女の子も男の子も同じぐらいの人数がいました。
普段しずかな車両はあっという間に黒く埋まって、座席も通路も今までにない混雑です。
こんな中で絵本を読むのは恥ずかしいのですが、いつものように絵本を開きました。
混んでいる車両は息苦しいものです。

 例の男性が乗る駅に到着しました。この混雑では、私の向かいのシートには座れませんし、
私が見える座席も空いていないでしょう。安心していたのですが、私の目の前に、見慣れたジーパンが立ちふさがりました。
顔をあげるまでもありません、彼です。女子生徒を押しのけて、私の前に立ったのです。
女子生徒の怪訝な声が聞こえ、私の頭の中は真っ白になりました。
 私の頭の上から、「フシュー フシュー」と、荒い息づかいが聞こえます。
手にあせをかいているようで、しきりにジーパンに手をこすりつけています。
わけがわからなくておそろしくて、私は絵本のページをめくるのも忘れて固まってしまっていました。

 次の日はいつもどおり、すいた車両に一人で座って絵本を眺めていました。
そしてあの男性も、同じように電車に乗り込み、例のごとく私の前の座席を選んで腰をおろします。
私は勇気を出して、顔をあげました。すると彼と目が合い、お互いにビクッとしてしまいました。
「あなたは、何故私を見つめているのですか」
私が震える声で彼に聞きました。私のほうが年上なのに、体格の良い彼にもし絡まれたら、ひとたまりもなさそうです。
彼は黙っていました。

「おれ、酔いやすい体質なんですよ」
彼が朴訥な口調で語り始めました。
「薬とか民間療法や、マインドコントロールとか試してみたんですけど、さっぱり効かなくて、
通学が憂鬱だったんですけど、ふしぎとあなたを見てると、酔わないんですよね」
私はぽかんとくちをあけて、彼の話を聞いていました。
「他の人でも試してみたんだけど、あなたじゃなきゃ駄目だったんです。
昨日はなかなか見つからなかったから、気分が悪くなっちゃって。
これからも、見つめさせてもらっていいですかね?」

「……そういうことなら、仕方ないですね」
私は彼が見つめるのを許可しました。電車に酔う憂鬱さは誰よりもわかっているつもりです。

今日も彼は私の向かいに座っています。

end

(c)AchiFujimura 2004/5/12