幸せ催眠術
僕の彼女は、幸せになりたいというのが口癖で、そのたびに「僕が幸せにしてあげるよ」と返事をしていたのだけれど、
いつでも眉をさげて微笑むだけで、僕の言葉をどう思ったのかはわからなかった。
そんな彼女は幸せを求めて、新興宗教や自己啓発セミナーなどに足繁く通うようになって、
そういう団体に偏見を持っていた僕は、何度も彼女にやめろと強く言い聞かせていた。
彼女が「幸せになりたい」といういつもの口癖を言わなくなったことに気がついて、
「そろそろやばいぞ」と、僕は彼女の変化にあせり始めた。
彼女が唯一やめずに通い続けているセミナーへ、僕もついていくことにした。
僕が同じ団体に所属する気になったと思ったらしく、彼女はたいそう喜んで、早速団体で一番えらい教祖様に
僕を引き合わせてくれた。
そこはビルの三階にあって、大きな窓には薄いカーテンがかかっており、それはすべて開かれていて、
フロアを明るい日差しが照らしていた。
「私が代表です」と言って名刺を差し出してきたのは、シワの無いシャツをピシッと着込んだ、四十代半ばの男性だった。
「教祖様ですか」と僕が名刺を受け取ると、相手は少し笑いながら
「みんなそういうけど、私はそういうつもりではないんです。幸せ手伝い人……とでも言いましょうか」
と僕の眼を見た。僕の眼には、疑いの色が浮かんでいたに違いない。男は笑うと、
「教祖と聞いてきたんじゃ、私のことをうさんくさいやつだと思っていらっしゃいますね。
何も心配しなくて良いんです、私はここに来る人からお金を取ったりしていませんし、ウソもついていません」
「あの女性が、貴女の彼女ですね?先ほどちょっと術をかけてきましたんで、もう幸せ真っ只中ですよ」
男が手で指ししめしたほうには、いつのまにか僕の彼女がイスに腰掛けていて、いままで見たことのないような
陶酔した表情で宙をみつめ、微笑んでいるところだった。
「アレが幸せですか? 一体彼女に何をしたんですか!」
僕が詰め寄ると、男は「催眠術をかけました。幸せ催眠術ですね。この術で、皆さん幸福を感じられます」
と、淡々と説明した。
「そら、みろ!催眠術なんていうまがい物じゃないか、僕の彼女をだまして、幸せだなんてウソをついて」
彼女の幸せそうな顔が信じられず、怒りと嫉妬が半々で、僕は男のシャツの袖をつかんだ。
男はビクリともせず、そのまま目を閉じて、小さな声ではっきりと喋った。
「彼女はもともと幸せな人間なんです」
だんだんうさんくさくなってきたぞ、彼女がもともと幸せだって?
僕は彼女の身に何が起きているのか知っている、彼女の不満だって知っている。
「彼女は幸せになりたいというのが口癖でしたが」僕は勝ち誇ったように、男にそう告げた。
「食べ物にも、寝るところにも、明日のことも心配しなくても良い人間が、幸せでないわけがありますか」
「幸せは、ほんのそこら辺に転がっているものです。それに気づける人間は幸せな人間で、
手にとるもの全てを不幸と感じる人間が一番不幸です。きづかないだけで誰もが幸福なのです、
誰かにどうにかしてもらえるものではありません。ですから、催眠術で幻想をみせて幸せにするしかないんです」
「あなたは、彼女を幸せにしてあげることは出来ないんですか」
男の口調が厳しくなったのもあるが、言ってることが正しかったので、僕は何も言い返せなかった。
そういえば、僕はどうすれば彼女を幸せにしてあげられるのだろう、
キレイな花畑も、楽しい遊園地も、おもしろい映画も、美味しいお酒も、彼女を幸せにしなかった。
僕には催眠術のちからも、ない。
「催眠術はね、ちょっと訓練すれば簡単に出来るんですよ」
男が打って変わって、優しい口調で僕の肩に手を置いた。
「私ならあなたに、彼女にピッタリの催眠術を教えて差し上げることが出来ますよ。レッスン料は23万円ですが、
幸せの値段にしては破格に設定させていただいております」
僕のボーナスは彼女の幸せのために消え、彼女はセミナーに行かなくなり、それから幸福な催眠術の毎日が始まった。
end
(c)AchiFujimura 2004/08/3