ちぢむ
私の母は、突然心臓の発作で倒れて三日後に亡くなった。
私が四十五歳のときだった。母が倒れて危篤状態になるまで、私は漠然と
「母はいつかからだが弱り、長く病床につき、介護の末に息を引き取るのだ」
と思い込んでいたので、あまりに突然だった死を信じられず、長い間立ち直ることが出来なかった。
普段の生活も全て放り出して、ただただ悲しみに明け暮れる私の姿をみた誰かが、
私の後ろから優しい声をかけて来たことがあった。
「願いを何でもひとつかなえて差し上げるから、早くもとのあなたに戻りなさい」
後ろを振り返る余裕もなく落ち込んでいた私は、しばらく黙ってひざを抱えていた。
「母親が亡くなってしまったのは仕方がありません。ただ、このような悲しみはあまりにひどすぎます。
私にも妻と娘がいますが、同じ悲しみを味わわせたくありません。
私の願いは、突然死にたくないのです。ちぢむように消えたい、だんだんちぢんでその存在をなくしたい」
「わかりましたよ、そのように取り計らってあげるから。あなたはまた普段のあなたにもどるんだよ」
「はい」
朦朧と会話をしていたのだが、後ろをふりかえると誰もおらず、
ただ強い光がそこにあったかのように薄く影が残り、その影も次第に消えていった。
その日から少しずつ元気を取り戻し、普段の生活に戻った。
母が亡くなってからもう二十年ちかくたち、すでに日常からは母の影が消えていたので、
私は昔願った願い事のことなどは、今日まですっかり忘れていた。
「お父さん最近縮んだんじゃない?」
孫をあやす私の姿をみながら、娘がそう言って笑った。
「ちぢんだかな……? ちぢんだとしたら、もうすぐ死ぬのかな」
私はあの願い事をした日のことを思い出しながら、孫の笑顔につられて笑っていた。
「やだ……お父さん、変なこと言わないで? 」
娘が不安そうな顔になって、完全には笑えていない表情をしながら、私が抱いている赤ん坊に指を吸わせていた。
「お前には言っておこうかな。父さんな、お願いしたんだよ。
お前のおばあちゃんみたいに、突然死んだらみんな悲しむから、死ぬときはだんだん縮むようにしてくださいって。
だからちぢんできたとしたら、父さんはそのうち小さくなって消えてしまうんだよ」
「嘘!嘘!大丈夫、気のせいよ。ちぢんでなんかいないし、大体そんなお願い事がかなうわけがないじゃない。
お父さんってば意地悪なんだから……」
私は少し寂しい笑いを浮かべて、腕の中の赤ん坊をみつめた。
その日から私は身長を測ることにした。台所の入り口に貼りついて、ペンで印をつけるのだ。
私は確かにちぢんでいることがわかった。しかもわかる速さで、一週間もたてば十センチぐらい小さくなっている。
一ヶ月たったころ、これはあまり長くないぞと思い、妻と娘に事情を説明した。
もとは百六十八センチあった身長も、この時点ですでに百三十センチをきっていたから、だいぶ小さくなっていた。
「小さくなっても、私たちが守りますからね」
妻がつぶやいた。手を握れば、妻の手の暖かさと、大きさに改めて驚く。
計算してみたら、どうやら毎日1パーセントちぢんでいるようであった。
小さくなってみると、この世界が新しく見えてくる。急にちぢんだので、知らない人に何やかやと
言われないために、私は外に出ないようにしたし、知人には旅行に行っていると伝えた。
二ヶ月たつと、一メートルを切り、孫と同じぐらいの大きさになった。まるで赤ん坊そのものだ。
階段も厄介なので、一階の部屋で寝起きすることになった。
「お父さん! お父さん! 」
妻の、私を呼ぶ声の振動が体に響く。「ここだ、ここだ! 」私が精一杯叫びながら、
体よりずっと大きなスプーンを、なんとか下に落とすと、ようやく私の存在に気がついてくれた。
縮み始めてから一年、すでに私の大きさは五センチを切っていた。
「孫に食べられてしまったのかと思いましたよ」
孫は何でもくちに入れたがる年頃なので、大きなビンにでも入れてもらわないと近づくことすら出来ないのだ。
大きなミルクビンが私の部屋だ。孫が転がせないように固定してあって、中にいろいろ家具の代わりを置いている。
身に付けていたものは一緒に小さくなるようなので、毎晩違う服を着て眠ることで、何着か小さい洋服を持っていた。
人形用の洋服はダメだ、縫製が雑すぎてゴワゴワする。縄をなったようなさわり心地なのだ。
小さくなると色々が新しい。水はこんなにネバネバしていたのか、ホコリはこんなに多彩だったのか。
五百日がすぎて、私の大きさは一センチを切った。
そろそろ別れの時が近づいてきたみたいだ、妻や娘には私の姿が見えているのだろうけど、私にはほとんど見えない。
彼女達がミルクビンよりずっと遠く離れているときだけ、遠方の山を見るように姿を眺めることが出来る。
山に近づきすぎると山自体はよく形がわからないだろう?
富士山だって遠くから見たらスベスベなのに、近づけば木々が森を作っているのだ。
妻が毎朝声をかけてくれているようだが、私の大きさだとあちこちにぶつかった音があちこちから大音量で
聞こえて来るようで、ボワーンと何かが震えているような音になってしまう。
たまに遠くから響いてくる、エコーのかかった声で、私のことを想う言葉が聞こえる。
二年がすぎ、私の体は一ミリを切った。
体はちょっとした振動でも舞い上がるようになり、フワフワとホコリとともに舞った。
近くにたくさんいる細菌の中の一匹をつれて、水の中を漂うような空中だけが毎日の楽しみだった。
もう何もわからない。
別世界にきてしまった気すらする。いつのまにか私の体は単純化したらしく、
人間らしい生活をせずとも生きられるようになった。
周りのバクテリアなどにも取り込まれることなく、フワフワと心だけが存在しているような気分だ。
あの世って言うのはもしかするとこれのことかな。
実は魂ってすごく小さくて、死ぬと魂だけになって、この小さな世界に来るのかもしれない。
私は縮むことを選択したが、妻や娘は悲しまなかっただろうか。
もしかすると、妻も娘も、私がいつ消えてなくなったのか判断できずに、
いつまでもあきらめることが出来ないかもしれない。
それだと逆にかわいそうなことをしたな……と私は想った。
さて、私はいつ消えてなくなるんだろうか?
1%ずつ減っていっても、決してゼロにはならない。限りなくゼロに近づいていくだろうが、
そこに数字がある限り、ゼロにはならないんだ。
一番小さいのはウィルスだっけ?
とりあえずはウィルスにあえることを楽しみに、これからもちぢんでみようと思う。
end
もう少しいろいろ勉強したら書き直すかも。
(c)AchiFujimura 2004/11/7