冬眠の鯉
鯉は眠ったように、じっと沈んで冬が過ぎ去るのを待ちます。
そんな時、気の合う相棒がいるのといないとでは、冬の楽しさがだんぜん違うので、
鯉は何匹かがかたまって物影にしのびます。
流れの緩やかな岩陰に沈んで、うとうととしている大きな鯉のそばに、もう一匹の鯉がやってきました。
「お隣、いいですか」
「どうぞ、あいているから」
「最近寒くなりましたねえ」 あとからきた黒い中くらいの鯉が言いました。
「めっきり寒くなったな。落ち葉も少なくなったみたいだし、そろそろ雪が降るかもしれない」
「雪が降ったら、寒くて、水の上に背中も出せませんね」
ボーっという音に混じって、ゴポっと空気が動く音がたまに聞こえます。
水底をキラキラ言わせながら、石やガラスの破片が流されていきます。
大きな鯉はたわむれに、小石をくちでつまんでは吐き出してあそんでいます。
「それ、おもしろそうですね」
黒い鯉が声をかけましたが、大きな鯉は何も答えず、ただのんびりと小石をくわえては吐き出しました。
黒い鯉も小石をくわえては、吐き出してあそびました。
薄みどりの水の中を、灰色の泡がのぼって行きます。今日は二匹とも、泡をただみつめていました。
上流から流れてきた泡が二匹の鼻先をかすめたとき、黒い鯉がいいにおいにきづきました。
「おや、なにかいいにおいがしますよ」
「やまなしでも、石の間に挟まったんじゃないか」
「宮沢賢治ですね」
大きな鯉は少し驚いて、
「宮沢賢治の『やまなし』を知っているのか、もとは人間だったのか」
と黒い鯉に聞きました。
「ええ、昔は人間でしたよ。死んだときに何になりたいか聞かれたから、鯉って言ったんです」
「私もだよ、鯉になってもう三十三年も経ったよ」
「わたしは十二年です……」
「結局、クラムボンってなんだったんでしょうね?」
「わからないな」
「鯉になってから、クラムボンに会いましたか?」
「さぁな、会ったかもしれないし、会ってないかもしれない」
二匹は、お互いに人だったことを知って、人だったときに読んだ本の話を続けました。
いままでの冬眠で、一番話が弾みました。
「鯉になって何が良かったってね、他の動物だった鯉の話も聞けることですよ」
「そうだな、どの動物にも伝わる物語があって、それは全ておもしろいな」
「鯉は全て覚えているんですよ……だから何でも食べるし、よく眠るんですよ」
「まったくその通りだな」
「お隣、いいですか」
冬ももうすぐそこまで近づいた夕方に、三匹目の鯉がやってきました。
「どうぞ」
「あなたは、鯉の前はなんでした?」黒い鯉が、その三匹目の小さな三色の鯉に聞きました。
「私ですか、私はネコでしたよ。鯉は大きすぎて獲れたことがなかったから、自分が鯉になって
食べようと思ったんですが、鯉になったら鯉を食べようという気持ちもなくなってしまってねえ」
三匹とも笑いました。
「なるほど、ヒトの物語ですか、きれいな話ですね。うすら寒いところも澄んでいて、鼻を通り抜ける
冬の大気のような冷たさと、春近い暖かさの入り混じった日差しのようなものを感じました」
ネコだった三色の鯉は、「やまなし」のお話を聞いてそう感想を言いました。
「ネコの世界にもお話はたくさんありますよ。これは縁側の下で、モグラと出会ったネコの話です……」
水が冷たい間は退屈な冬眠の季節です。
しかし三匹にとって、この水底は物語に満ちあふれた、広大な空間にうまれかわったのです。
end
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