あしたの痕跡[1]
あしたの痕跡[2] あしたの痕跡[3]
あしたの痕跡[2]
「社長、おかえりなさい。次のお仕事が入っていますよ」
会社に戻ると、経理がメモを手渡してきました。
「相当、困っているようでしたので、なるべく早く行ってあげてください」
経理が眉をひそめて私をせかすので、黒いスーツを脱ぐ暇もなく、また外へ飛び出しまし
た。
今日は初夏の日差しが強く、私の黒いスーツを容赦なく照りつけます。
依頼人の家へ到着しました。
「ああ、待っていました。おととい亡くなった母の『あしたの痕跡』がありまして、困っているのです」
家には青年がいて、心底困った表情で私に助けを求めてきました。
「困っているのですか。実害が出ているのですか?」
「とにかく、見てください」
私は台所へと案内されました。チラッと部屋の中へ目をやると、家の中では葬儀屋が着々
と葬儀の準備をしており、遺体が安置されているのも見えました。
「この炊飯器なんですが……母が、亡くなる前に炊飯器へ米をセットして、タイマーをか
けておいたようなんです。
朝になったらご飯が炊けているはずでしょう、しかし今も動かないままです」
「ご飯が炊けないのでは、お困りでしょうねえ」
私は驚いて、炊飯器をなでました。炊飯器は動かなくなっただけでなく、開けることすら
出来なくなっているのです。
「ご飯が炊けないのは、たいした問題ではないのです。しかし母は生前『あしたの痕跡』
を強く信じていました。
もしも突然死んでしまったら、私にもあしたの痕跡が残ってしまうのかしら……と。
そして、炊飯器は母が亡くなった時間から時を進めていないのです」
青年は信じられないという目つきで、私と炊飯器を交互にみつめながら興奮した様子で話
しています。
私も釣られて興奮してきましたが、なんとか顔には出さずに気持ちを落ち着かせました。
「わかりました、早速この『あしたの痕跡』を駆除いたしましょう。
これから説明するように動きながら、この炊飯器の時間がもとへ戻るように強く祈ってください」
昼間の女性のときのように、大きく動いてもらいながら、私がハサミで空中をシャキン、
シャキンと音を立てて断ち切ります。
すべてが一通り終わった後、青年は恐る恐る炊飯器に手をやりました。
そっとフタのボタンを押すと、しずかにフタが開き、水につかってふやけた生の米が見えました。
「ああ、ありがとう。炊飯器の時間は動き出した」
私自身も驚いて、炊飯器の香りを感じつつも頭の中は真っ白になってしまいました。
「だけど」
青年が炊飯器を手にしたままつぶやきました。
「本当に母は、死んでしまったんですね」
青年の頬を涙がつたいました。
青年の家を後にしたのは、もう夕方に差し掛かった頃でした。
彼の涙が心に残って消えません。炊飯器だけでなく、彼の時間も動き出したように見えました。
本当にあしたの痕跡は存在しているのでしょうか。誰よりも、今は私がそのことを信じられません。
会社へ帰ろうと、車を走らせていたときです。
携帯電話が鳴ったので、車を脇へ寄せて止めました。電話は、会社の固定電話からかかってきていました。
「もしもし、どうしました」
「早速次のお仕事ですよ。先ほどの方とお住まいが近くでしたので、戻らずにそのまま依頼先へ向かってください」
経理は淡々と住所を説明しました。私は忘れないよう、手帳にメモをとりました。
「それと、次いでお電話がありまして、もう一件予約が入っています」
「おいおい、もう夕方なのに、あと二件も?」
私が慌てて聞きなおすと、経理はわかっていると言う口調で
「そう思いまして、二件目の方には明日一番にうかがいますと伝えました。明日はまず、そちらへ向かってください」と答えました。
「ありがとう」私は礼を言って、これも手帳へメモしました。
[つづく]
あしたの痕跡[1]
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(c)AchiFujimura StudioBerry 2005/12/4(執筆日・2005/9/30)