朝、肌寒いなと思った日でした。
私はいつもの通り、会社へ行くために最寄の地下鉄の駅で電車を待っていました。
線路に向かって、右側から鈴虫の声が聞こえるのです。
イヤホンをして音楽を聴いていたのですが、イヤホンも音楽も通り抜けて、そのひときわ
高い音は私の耳にいつまでも届いてくるのです。
イヤホンをはずして周りの様子を見れば、誰もがこの声に気がついていて、
しかし誰もが「気づいている事を他の人に知られないように」気をつけていることが分かりました。
私も「周りの人も気づいていることに気づかない」フリをして、声のするほうは見ないように
していました。その間も、地下鉄の穴が幾重にも鈴虫の声を大きく響かせています。
私は不意におそろしくなって、電車が到着する前に地上へ出てしまいました。
くるときには気がつかなかったのですが、空の雲は何者かに散らされて、バラバラになっています。
すべてが黄金色がかって見える空気の中、黄金色のトンボが滑空していくのです。
私は早足で、家の方向へ歩き出しました。
その後ろから、金色にも黒色にも似た小さな塊が追いかけてくる事に気がつきました。
その塊は私の歩幅に合わせて、ピッタリついてきます。
追いつかれる。急がなくてはいけない。しかし急いでしまうのも怖い。
私の鼓動は早くなるばかりです。
いままで通った事の無い田んぼのあぜ道を使って、近道をしようとすれば、
緋毛氈のごとく、彼岸花が咲いているのです。
ついこないだまで何も無かったのに。
セミの声も聞こえなくなり、太陽が後退し、いよいよサムケはまして来ました。
やっとの思いで家にたどり着いて、薄手のカーディガンを羽織ると、
すうっといままでの不安もサムケも消えていくようなキモチになりました。
外に出れば、先ほどの塊も見当たりません。
穏やかな軟らかい日差しと、薄い雲のむれ。しずかな風の音。
ああ、あれは秋の気配だったんですね。
end
(c)AchiFujimura StudioBerry 2006/9/26
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