ズス虫

――「ズス虫あげます」
家の近所のペットショップの入り口に張られた紙をみて、僕は噴き出した。
秋の気配が近づいた、残暑の和らぐ季節で、あきらかに「スズムシ」と書きたかったことがわかるその張り紙に、
目が釘付けになってしまった。
とりあえず面白いネタとして携帯電話のカメラで証拠写真をとり、冷やかしで張り紙のある店に入ると、 その薄暗い店内を眺めてみた。

 カゴに入った、いまだ売れ残っている弱弱しいカブトムシには200円の赤札がついていた。
水槽には和金やコメットなどがいて、特に目新しい生きものはいなかった。
ドッグフードの袋には少しホコリも積もっていて、使用期限があやしいものばかりだ。
ヒレがボロボロになっているらんちゅうだけが高価な生きもので、5,000円の値がついていた。

 真っ赤なゼリーにしがみついているカブトムシを見ていると、さらに暗い奥の部屋から
老人が出てきて僕に声をかけてきた。
「カブトムシなら、あげるよ。もう長くないだろうから」
ふいをつかれたので、僕はビクッとして後ろを振り返った。
僕よりずっと背の低い老人で、腰は曲がっておらず、ひもネクタイでオシャレして、どこか飄々とした雰囲気だ。
「ああ、いえ、カブトムシはいりません」
「ドッグフードだったら、あのへんので良ければ、あげるよ。なに、まだ食えるだろう」
「いえいえ、ドッグフードもいりません」

 僕は笑いをこらえながら、からかうつもりで言った。
「ズス虫あげますって書いてあったから、ぜひもらおうかと思って」
「ああ、ズス虫ね。 あれは奥にあるから、待っていなさい」
老人はもう一度中へ引っ込んだ。確かにズス虫って言ったよな? あれ?
からかうつもりだったけど、僕が知らないだけで本当にいる虫なのかな?
平静を装って、もう一度カブトムシをみつめた。相変わらずゼリーから離れない。

「これがズス虫だよ」
老人が、きざみネギのパックみたいなちいさいプラスチックに入ったものを僕に見せた。
「うえ、なーんじゃこりゃ」
思わず声がでる。「虫ですかこれが」
ズス虫は頭がおおきく、丸くつるっとしている。そして申し訳程度の胸部分と腹部分があり、
胸部分からスキマなくぐしゃっと長い足が六本生えていて、仰向けになってもぞもぞ動いてる。
黒く、にぶい艶をもつその丸い物体を見れば僕の気持ち悪さもわかってもらえるだろう。

「間違いなく虫だ、昆虫だ。頭・胸・腹に分かれ、胸から六本の足が生え、羽はあくまで
退化してしまって無いのだよ。頭が大きすぎて、足での移動はムリだから転がっているが……」
「これはどうやって飼うんですか」
「本当にこれをもらいに来てくれたのか。簡単だよ、青年。一日一回ぐらい、霧吹きで
適度に湿らせてやればいい。それだけだよ」


 僕は本当にズス虫をもらってきてしまった。
インターネットでズス虫を検索しても、こいつの情報は見当たらない。
とりあえず霧吹きでじめっと湿らせてやると、喜んでいるのか足をもぞもぞ動かした。
「夢に出てきそうなぐらい、気持ち悪いやつだな」
僕は顔をしかめながらも、ズス虫の奇妙な動きの魅力に取り付かれたようだった。


 その夜、夢をみた。
淡いピンクの湯気が立ち上るじめっとした空気の中、美女に出会った。
奇妙な光を放つ着物を着ていて、僕に微笑みかけてくる。
夢なのはわかっていたので、僕はせめていい思いをしようと、美女に声をかけた。
「お名前は?」
「ズス虫です。それ以外の名前はありませんし、いりません」
「なんと、あのズス虫か。美しい人だと思ったら、あのズス虫か」
夢の中の美女はズス虫だったのである。
「私の大きな頭からでる夢電波で、あなたの夢の中で姿を構成しています。
目に見えるものの情報なんて、脳でいくらでも変換できるのですから……」

 ズス虫が見せてくれる夢は、毎晩その美女と不思議な世界にいられる夢で、
僕は存分に美女との会話と逢瀬を楽しんだ。
一ヶ月もたつと、僕たちの間に会話は要らなかった。
ただ触れ合って、同じ空気の中にいられることが何よりも幸せで楽しい事になっていたからだ。

 ある日、いつものように愛しいズス虫に霧吹きで水をかけてやると、ズス虫がまったく
反応しない事に気がついた。驚いた僕はケースを揺さぶったりしたが、全く動かない。
その日は夢も見ずに目がさめた。ズス虫は死んでしまったのだ。

 朝もやも消えきらない午前五時、僕は寝巻きのままでペットショップのシャッターを叩いていた。
「おじいさん! おじいさん! ズス虫が、ズス虫が死んじゃったんだ!」
僕はカブトムシをはじめて死なせたあの夏休みみたく、動転してなきながらへたり込んだ。
「ズス虫はだいたい一ヶ月で動かなくなるよ。そういう寿命だ」
眠っていたところを起こされて、不機嫌な口調で老人がそう言った。
「他のズス虫はもういないんですか」
「いるさ。いるけど、お前さん夢を見てたんだろう。あの娘はこのズス虫だから、
他のズス虫を飼ってもあえないさ」
そんな。
僕は声にならない思いで、うごかないズス虫を、愛しいズス虫をみつめた。

「まあそんなにしょげるもんでもないよ。ズス虫はお前の心に生きているよ」
「気休めはよしてください」
「本当の話だよ、ズス虫はなあー。『頭巣虫』って書くンだ、一ヶ月も近くに置いて飼っていたら、
頭の中にすっかり移り住んですみかにしてしまう。動かなくなったってことは、その外見をすてて、
お前の頭の中に巣を作ったんだろう。もういちど寝てみれば会えるだろうよ」

 老人が優しく僕の頭をなでてくれ、うちで一休みして帰れと言ってくれた。
その夢でも遭えるかもしんねえぞ……と言うので、僕はそれを期待して涙ぐんだ。

「どうした、眠れねえか」
「おじいさん、僕は興奮してるみたいだ……心配だよ、また会えなかったらどうしよう」
「会えるさ、この眠り薬のんでぐっすりやすめ」
「ありがとう」
僕は老人にもらった薬を飲んだ。枕もとにはズス虫の死骸を置いている。
急に頭から血の気が引いて、世界がグラグラと回り始めた。
老人が隣の部屋へと消えていく……

薄れる意識の中で僕は見てしまった、老人が開けたふすまから見える隣の部屋には、
僕ぐらいの若い男達が何人も眠ったように倒れていて、その傍らにズス虫の死骸が転がっているのだ。


end

(c)AchiFujimura 2007/02/8



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