前世はごきぶり

※ごきぶり嫌いな人はこれ以上スクロールしないように




 結婚しよう、と三年付き合った彼女の肩を抱いて僕がいうと、彼女は悲劇のヒロインのように涙をためて僕の腕から抜け出して逃げた。

 彼女の逃げ足は早く、追いかけるのがやっとだが、僕はもう知っている。
彼女はいつもこういうスキマに隠れているのだと、建物の間をのぞいてみれば、やはりそこに彼女はいた。肩を揺らして泣いている。
「どうした、結婚はいやだった?」
僕がしずかに聞くと、彼女は首を振って下を向いてしまった。

「じゃあ結婚しよう。君でなければ、イヤなんだ」
僕は僕の精一杯の気持ちを伝えた。彼女はスルッとスキマからこちらへ出てきてくれた。
「だめなのよ、私だめなのよ」
彼女が小さな、消え入る声でつぶやいた。
「どうしてだめなの、僕が良いって言っているんだから」
「私、前世がごきぶりなのよ。こんなごきぶり女と結婚するなんてあなたがかわいそう」
ポタポタと、彼女の手を握った僕の手にも涙が落ちた。
前世がゴキブリ……もともと変わった女性だったが、前世も有った事は初めて知った。

「ごきぶりだった頃は、それはそれは惨めな生活をしていたわ。人間を横目で見ては、
私も人間になりたい! と思っていたのだけれど、いざ人になってみたら結局は前世の記憶に悩まされる毎日なのよ」
僕は彼女の手を握ったまま、うつむく彼女のつむじを見つめていた。
「十四歳ですべてを思い出したわ……私ごきぶりだった。誰にも気づかれちゃいけないから、 お気に入りだったレザーのジャンパーやスカートを全部捨てたわ」
今日の彼女はふわふわと風になびくピンクのシャツワンピースを着ていた。

「つらかった……本当につらかった。 こんな私と結婚したらあなた、かわいそうよ」
さらに泣きじゃくる彼女を抱き寄せて、僕はつぶやいた。
「僕も前世はごきぶりだったんだ。黙っててごめん」
彼女は僕の顔を見て、涙を止めた。
「そうだったの。そうだったのね」
「そうだよ、お似合いだよ」

僕と彼女はお互いを抱きしめて、その場に立ち尽くした。
「あなたもつらかったのね。 私も排水溝のふたのうらにいたとき……」
彼女の唇をそっとふさぎ、僕は囁いた。「つらかったあのころの事はもうわすれよう」
「そうね、今日限り忘れましょう」

「結婚してください」
「はい」 彼女が笑顔をみせ、頷いた。


end

(c)AchiFujimura StudioBerry 2007/04/4


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