三時の喫茶店

 三十代後半のその男性は、日曜日のあかるい午後に自宅の近所を散歩していました。
男性は、最近このあたりに引っ越してきたばかり。近所に何があるかチェックしながら、散歩をするのが週末の楽しみでした。

 ぐるぐると住宅街の角を回っているうちに、なにやらおしゃれな洋館を発見しました。
ちかよってみると、喫茶店のようです。小さなガラスのショーケースが入り口にあり、
中にはコーヒーカップやケーキの模型が置かれ、そこに「営業中」と書かれた札が下がっています。
「喫茶店か。もうすぐ三時だし、入ってみるのもいいな」
しかし、その喫茶店は本当に営業しているのかわかりません。
「営業中」と書かれてはいるものの、ショーケースは少し色あせてくすんだような、砂埃をかぶった状態ですし、
まだ明るい時間ですので、店内に明かりがついているかどうかも定かではないのです。

 門を開けると音もなく簡単に開きました。庭は手入れされているようで、秋も深まったのに夏のような花がいまだに咲いていて、
初夏のような新しい緑がまぶしく、とても好印象です。

 「こんにちは。お店は開いているのですか」
男性は外から声をかけながら、建物の扉を開けました。


 中はシーンとして、誰もいないようです。
「やっぱり営業はしていないのかな」
男性はつぶやきました。人の気配をまったく感じません。
しかし、真ん中にひとつあるテーブルの上には、ポットとコーヒーが置かれているのです。
時計はちょうど三時をさしています。
男性はとりあえず、テーブルの前に置かれたいすのひとつに腰掛けました。
――このコーヒーは私のためにおかれたものなのか? 私が飲んでしまっても大丈夫なのか?
男性が悩むのも無理はありません、コーヒーはカップになみなみとそそがれ、淹れたてのように熱いゆげをあげていたのですから。

 不思議と、このコーヒーは飲んでもよいように感じました。
男性はコーヒーに口をつけました。本当に熱い。おかわり用と思われる小さなポットも、熱いコーヒーが入っています。
ミルクも入れて、砂糖も入れました。
とにかく不思議な体験でした。この後コーヒーをゆっくり飲む間にも、誰も姿を見せず、ただ庭がきらきらとまぶしいぐらい緑を輝かせているだけなのです。

 コーヒーはおかわりまで飲み終わって、お金を支払いたいのだけど結局誰も出てきません。
「まいったなあ」ふとメニューを見れば、そこにブレンドコーヒーの価格は書いてありました。
■ ブレンドコーヒー 350円 ■
「それじゃ、とりあえずお金を置いて出て行くか。すいませんけどお金はここへおきますからね」
男性は350円を置いて、店を出ました。

 次の週も男性は近所を散歩していました。
「またあの喫茶店に行ってみるか。お金を受け取っていないようだったら、もう一度払わなくてはいけない」
土曜日の午後でしたが、喫茶店は先週とまったく同じたたずまいです。
中に入るとやはりテーブルに熱いコーヒーが置かれ、誰もいないのです。
掃除が行き届いた店内。こないだ置いた350円はやはり見当たらない。
「……やはり、誰かがちゃんと管理しているとしか思えないな」
男性は二度目ということもあって、そのままコーヒーをいただいて、また350円を置いて喫茶店を出ました。
「ある意味、気楽といえなくもない」
人がいないことをのぞけば、コーヒーもおいしいし、環境も空気も良いので、男性はすっかり喫茶店を気に入ってしまいました。


 寒さも強くなり、雪もそろそろではないかという日曜日に、男性はいつものように喫茶店に向かっていました。気がつけば常連です。
今日は午前中に雨が降っていました。散歩はあきらめて家で本を読んでいたのですが、三時前には雨もあがり、
日が差したのです。男性は早速文庫本を片手に、家を飛び出しました。

 喫茶店の庭には、いまだ花が咲いていて、緑も新鮮です。季節感がないといえば、そうかもしれません。
男性は門からスキップするように飛び石をわたって、喫茶店の中へ入りました。
「ん? なんだ、そうなのか」
いままで毎回三時ごろには喫茶店に入っていたので、気づきませんでした。
喫茶店の時計が止まっているのです。
「三時半すぎに家を出たからな。まだ三時ってことはないだろう……こんど電池でも換えてやるか」
その日もコーヒーを飲みましたが、カップのコーヒーはだいぶ冷めてしまっていました。


 男性は次の週、三時ごろに、喫茶店へ向かっていました。ポケットの中には電池を入れています。
「こないだ裏返したら単三のマンガン電池が二本入っていたな。これであの時計もまた動くだろう」
喫茶店に着いた男性は、いつものコーヒーを飲む前に、時計を壁からはずしました。
ポケットから取り出したマンガン電池を二本、時計にはめ込んだそのときです。
「うわっ!」
時間を合わせるすきもありません。時計の針が、ものすごい速さでぐるぐるぐるぐると回り始めたのです。

 時計の針は回り続けます。それと同時に、周りの様子も変わってきました。
もこもこ、もこもこと湧くように現れる綿ぼこり。
急速に色を濃く変え、しぼんでいく庭の木々としおれる花たち。
カップの中のコーヒーも、乾いてタールのような塊だけが底にこびりつきました。


 この喫茶店は、時間が三時で止まっていたのです。
毎日三時がくると、あの日の三時に戻る。
あの、喫茶店が営業していた日の午後三時に。
三時に何があったのかわかりません。時計の止めた時間に飲み込まれて、お客も店員さんも、
三時に飲み込まれたに違いありません……なんの証拠もないけど、この狂ったようにぐるぐると回る時計を見つめていると、
男性はそう思えて仕方ないのです。

 喫茶店の時間は動き出しました。
すっかり荒れ果てて、茶色く枯葉を積もらせた庭を歩きながら男性は、一度だけ振り返りました。
ギイイ……と少し音を立てて、門の扉を開きました。 そしてショーケースの「営業中」の札を裏返し「本日の営業は終了しました」に変えて、家へ帰ったのです。


end

(c)AchiFujimura 2009/11/2




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