穴の臨界
僕のことを好きだという人がとうとう現れてしまった。
しかもその人は、僕の一番好きな人だった。
一番好きだから、彼女のことを見ないように気をつけていたのに、彼女のほうは僕を見つめていてくれたのだ。
「私のことも好きになってくれますか?」
彼女が言うので、僕は彼女のほうを見ずに目をつぶって、「もちろんです、いえ、ずっと前から好きだったんです。しかし……」
僕はあなたを見つめることが出来ないのである。
僕が彼女のことを見つめないのにはわけがある。
すでに彼女は穴だらけだということ。これ以上穴が増えるのは嫌だということ。
僕が穴の開くほど見つめると、本当に穴が開いてしまうのだからたまらない。
どうやら「穴が開いたように見える」だけで、実際にそこが欠けているわけではないようだ。
しかし現実に、僕には穴が開いたように見える。向こう側まで貫通してしまっている。
好きな人はつい見つめてしまうので、彼女は穴だらけだ。
こんなうつむいたままの僕を彼女は愛してくれて、僕もうつむいたまま彼女を見ずに愛して、
僕らは手を繋いで結婚式を挙げた。ウェディングドレス姿の彼女にもポコポコ穴が開き続ける。
凝視しないように、焦点を合わせないように、彼女を目の端で見やるしかない。
彼女の向こう側がどんどん見えるようになっている。
上半身や手先はほとんど穴になって消えてしまった。触れることが出来るけど、見ることが出来ない。
このままでは彼女がまったく見えなくなってしまう、僕はソレを恐れて、彼女のほうを見ないで毎日を過ごした。
何年たっただろう、僕は子どもたちの顔も、妻である彼女の顔も、写真を焼き増しして姿をみることしか出来ないまま
年老いてしまった。
彼女は足先がほんの少し残っているだけで、後はすべて「穴になってしまった」。
彼女のすべてが穴になってしまうまであと少しだった。姿が消えてしまうのはさびしすぎるので、僕は彼女の声がするほうを見ないようにした。
ある日散歩に出た僕は、突然振り出した雨に足止めを食らっていた。
彼女が熱っぽいというので、布団に寝るように言って、散歩がてら果物を買おうとおもって外出したのだ。
「困ったなあ、傘を売っているような場所も近くにはない」
本数も少ないバス停が、小さな屋根を備えていたので、ベンチに腰掛けて雨宿りをしていた。
雨はいつやむのか、途方にくれていると、雨霞の向こうに花柄の傘が見えた。
傘だけがゆっくり近づいてくる。彼女だ。あんなに「穴だらけ」で、傘しか見えないような人間は一人しかいない。
「君は、どうして。寝ていなさいといっただろう」
「だってあなた、帰ってこられないじゃない……」
傘が僕の前で少し回転して、止まった。
傘の持ち手に手をかけると、そこには穴になってしまって見えないが彼女の熱で暖かい手があり、僕は思いがけずドキッとして
目線を下に落としてしまった。
ゴム靴のような、穴の開いていない足先だけが見えた。
「しまった、足先に穴が開いてしまう……」
呟きが終わるより前に、最後の「彼女」である足先はボコッと穴になり、視界から消え去ってしまった。
とうとう僕は彼女を穴だらけどころではなく、穴そのものにしてしまったと落胆した。
そのときだった。
彼女はすべてが穴になることで、穴は存在しなくなり、すべてのカタチが穴ではなくなったのだ。
何十年ぶりかに見つめた彼女の、老いた笑顔。
僕は彼女を抱きしめて、見つめた。
「やだ、どうしたの……」
彼女の照れた顔に大きな穴が開く。
でも僕はもう、穴を怖がらなくてもいいんだ。
end
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