リンスインシェルター



 私は冷静なつもりでいたが、やはり相当慌てていたようだ。

 宇宙からの攻撃がある、地下室などへはいりなさい、という内容の警告があって、
私は玄関に用意していた緊急時持ち出しボックスをつかんで家から逃げ出したつもりだった。
しかし、逃げ込んだシェルターの中でまじまじと見れば、それはリンスなのである。
シャンプーの後、髪のすすぎに使うリンスなのである。

 そういえば先日リンスを買ってきた。あとで風呂場へ持って行こうと思って、袋から出して無意識に玄関の棚に置いてしまったのだ。
それがそのままになっていた。しかし言い訳にしかならない。形も大きさもだいぶ違うのだから。

 このシェルターにいろんな人がいるなら、もしかしたらリンスが役立つ場面もあったかもしれない。
「シャンプー後の髪がごわついてお困りですね。私のリンスを使うといい。流行りの商品ですよ」
――でも、残念ながらこのシェルターには私しかいない。
百畳ほどの広い空間に私とボタニカルなリンスしかいないのだ。

 少しの間、絶望して広い空間の真ん中に座っていたが、まずはリンスのポンプを回して上げることにした。
どうも、ポンプが下がったままだと、リンスが眠っているような気がしてならない。
私はこの相棒を目覚めさせなければいけない。
くちばしをちょっと回してやると、ポンプが伸びて、リンスも起きた。
「やあ、おはよう」
リンスはこの広い空間に驚いているかもしれないと思った。首を精一杯伸ばし、キョトンとした感じで広間にくちばしを向けている。
そりゃそうだ、本当だったら風呂場の隅で目覚めるはずだったろうになあ。

 このシェルターが完成したのは数日前だった。
他の星の生命体から地球上の人類のみならずすべての動物を駆逐すると予告されたこともあって、
予測される危機や災害に対処するため、自治体がシェルター設置に乗り出し、災害対策課の課長である私が
建てられたばかりの地下シェルターの完成に立ち会ったのだ。
広く、天井も高く作られていて、地下なのに圧迫感がなく、素晴らしい出来だった。
「あとはここに災害対策グッズ、水、保存食を備蓄し、ついたてを入れて避難時のプライバシーを確保しよう。
机があったほうが配給作業もやりやすいな。棚も可動式のものを入れるか……」
私が必要なものを考えて発注し、運び込むはずだったが、遅かったか。
ここはまだ、ただの箱でしかないのだ。

 内覧に必要だったため、照明だけは簡易発電機とともに設置されていた。
節約のために一部だけ点灯した。広い部屋の中で私とリンスだけ……
普段から割と几帳面な性格なのが災いして、ジャケットのポケットにも食べ物らしきものは入っていなかった。
いま外はどうなっているんだろう……携帯電話は持ち出してきたけど、充電があまりされていない。予備のバッテリーもないし、充電ケーブルも持ってない。
緊急時持ち出しボックスさえ持っていれば、そういうものも入っていたんだけどな。
そもそも、携帯電話の電波が入らない。シェルターの設置作業がもう少し進んでいたら、そういった設備も充実したかもしれないのに……

 シェルターに入ってから、数時間が経過した。入ってすぐに何度か揺れを感じて、これは本当になにかが始まってしまった、
いま出ては危ない……と頭を抱えて守っていた。シェルター内のどこにいたって同じだろうけど、心理的に一番奥の角に座ってしまった。
鍵は閉めていないけど、だれも入ってこない。当たり前だ、まだこのシェルターは周知されていない。
たまたま家が近かったから私はここを思い出して逃げ込んできたけど、建築会社の人間が近くに住んでいるとも限らないし、
近くに住んでいても思い出すかどうか……

「外はどうなってるんだろうなあ、リンス……」
「知りたくても電波がないからなんにもわからないんだ。ラジオも持ってないし、……でもラジオも意味があったかどうかわかんないな」
私はリンスの前に、圏外表示の携帯電話を差し出した。
リンスは黙って携帯電話の光を受けていた。

 寒くも暑くもないけど、喉は乾いたしおなかもすいてきた。
下水がつながってないけどトイレはある。でも今のところ使っていない。
こういうサバイバルだと排泄物を捨てちゃっていいのか悩むな。

 数日たったころ、どうしても見たいときにしか電源を入れていなかった携帯電話のバッテリーがなくなってしまった。
電源を入れて無くたって消耗するもんな。こんなことならもっと好きな写真でも見ておくか、音楽でも聞けばよかったかな。

 さらにそれから数日が経って、リンスに聞かせていた私の半生は、とうとう現在に追いついてしまった。喉も乾いてしゃべることができない。
リンスの中にはタプタプとリンスが詰まっている。当たり前だが。
リンスの水分を吸収できるんじゃないか……
ついつい期待して、少しなめてみた。後悔した。むしろ、たっぷりの水で口のなかをゆすぎたい。香料が鼻に抜けてむせてしまう。
ジャケットの袖を口の中に入れて、拭き取れるだけ拭き取った。
「うう……」
まだまだリンスが口と鼻の内部で香る。失敗した……
リンスはぼーっとそのまま立っている。「こいつ」苦々しくリンスをにらんだが、リンスは暢気なもので、たいしてたたずまいも変わらないようだ。

 もしかしたら、もう地球上の生き物は駆逐されて、私だけが生き残っているのかもしれない。
そう思ったら寂しくて、怖くて、生き物に会いたくて仕方がない。
リンスはポンプを押すと引っ込み、ぴゅっと中身を出す。そして自分でまた伸びてくる。
一連の動きは動物のようで、つい、その反応を求めてポンプを押してしまう。
部屋中にリンスの香りが立ち込めるが、むしろ心地いい。口の中にあった時よりはずっと楽しめるし、自分以外のものを感じることができる。

 また、ぬるぬるしているのがいい。これも生命に似ている。
私がリンスに親近感を覚えるのは、生命らしいぬるぬるさだ。生きているからこそのぬるぬるだろう。
丸みのある本体も、生き物っぽい。
私は液体を、自分の髪の毛や体と、リンスの本体に塗りたくった。充実した気持ちになった。
もしかしてこの選択は正しかったんじゃないか。とっさにつかんだものが緊急時持ち出しボックスだったら、中のものを利用するだけで、
利用せずに友達になるなんて考えられなかったかもしれない。
なんのやくにも立たないからこそ友達になれた……
そう、リンスと私は友達になったのだ。

 しかし、友とはお別れの時が来た。
もう私は長く生きられないだろう。水もないし、食べ物もないんだ。しょうがない。
どうせ長くないなら扉を開けて、外の空気を入れようと思う。
リンスは完全に乾いて朽ちるまでここにあるだろう……
友よ、見守ってくれよ。

 扉を開けても、階段を上がって外へ行くほどの元気はなかった。少し閉めそこなっていたのか、太陽の光が入り口の隙間から差し込んでいる。
それを見たのが最後の記憶で、私は気を失ってしまった……


 目を開けると、ひるむほどの太陽の光にさらされた。
「(……? 死後の世界だろうか……?)」
まぶしさをがまんしながら、少しずつ周りの状況を確認すると、私とリンスは並べて寝かされているようだった。
私たちが横たわる硬い板のそばでは、太った緑色の大根のようなものがゆらゆらと動いている。

「まだ植物が地球上に残されていたなんて。香りで気づかなければ、地球ごと太陽に放り込んで捨てるところでした」
「まったくだ。一応確認に来てよかった。 おうい、まだ乾いているから水分をかけておけ」
「ほかの植物たちとだいぶ形や材質が違いますね? こんな種類もあるなんて。珍しい植物なんでしょうかね……」
緑の大根がボタンに触れると、シャワーのように水が私に降りそそいだ。
私は水で喉を潤したが、緑の大根たちにみられていないうちに、リンスのポンプを一回押して、顔と髪に塗りつけた。
リンスはあと半分ほど残っているが……


end

(c)AchiFujimura 2017/9/5




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