2018/6/12 ベランダ菜園

今年もベランダ菜園に挑戦です。ここ数年やってなかった?去年だけやらなかった?

なんか最近はそういうのもあいまいです。

やらなかった理由は、コストパフォーマンスが悪いからです。せちがらい。

でもまたちょっと種と土を買ってきて初めてみました。

種2袋で108円。土と底石各108えん。計324円かな。せめてそれぐらいは得した感じになりたいですね。

 

バジルとベビーリーフの種をまきました。

どっちも苦手ではありますが……

ベビーリーフはもっと大量にまかなくちゃダメかも。ちょっとだけだと、何にもならないんですよね少なすぎて。

先週末に蒔いたばかりだけど、もう目がでて伸びてきた。早いぞ。

本葉が出るぐらいになったら家の中に入れておこうかな。アブラムシがすごい速さでつくんですよね、そしてすぐ枯れちゃうから。

バジルはあんまり虫がつかないと思うんだけど、まだ目が出てこない。様子見です。

さあ324円以上の満足度は得られるのか!

2018/6/8 全力を出せるわけではない

人間、どれぐらいの出力で生きられるんだろうなあ?

人の姿を見ていると、私よりももっと立派に、たくさんのことをやって、詰め込んで生きているような気がしてしまうけど。

本当に私は「やれてない」んだろうか?

多分ある程度はやっているんだろう、それを可視化するために日々の日記や具体的な数字による記録を付けたり、たまにはそれを見返して「やってるやってる。時間が過ぎただけではなく、これだけの時間が無ければできないことがある」と確認するようにしているけど、それでも「もっとできるはずなのかも……?」と思うことがある。


作品作りや発表方法、宣伝活動なんかにはそれがすごく感じられてしまう。

「ベストを尽くす」ことは ほぼ、できていない。

予感として、「ベストがない。終わりはない」ということがわかっているし、私はたった一つの何かを作っているのではなく、次々といろんなものを作りたいし見せていきたいと思っているのだから、ひとつひとつにベストは尽くせない。

フルマラソンのように、これでいいのかな~、最後まで行けるかな~と不安な中作品を作り上げて、完成したころにはくたくたである。

そこに「よし、きみが走り終えたことをみんなに知らせよう。知らせないと誰も君が完走したということをわからないし、褒めてもくれないし、賞金も出ないよ」と、お知らせしたり広めたりする作業が待っている。

また次の作品作りが待っているし、作りたい。その時も「前回はここが良くなかったから、もっとこういう工夫をしてよくしよう」となる。

もう一度マラソンに例えると、次のレースでは前回の失敗を繰り返さないように、コースを勉強し、さらにいいフォームで走れるように気を使い、ペース配分も考え、走り終わった後に告知しやすいように環境を整え、笑顔を忘れず、走りやすくかっこいい服を着て、最善の靴を選び、カーブでは細かく内側を走るようにし、水分をどこで摂るか決め、前日までのトレーニングや食事に気を使い、健康状態も整えよう!!!!

 

……みたいな!「できること」ってのはいっぱいあるわけで、本人もそれをわかっているのですよ。作品の宣伝も、「もっとここをこうしたらいい」というのは自分にもわかっていたり、今すぐにでもやりたいと思ってたりするのですよ。

でもベストは尽くせない。ずっとずっとベストってのは、できないもんですよ。できることはやりたいけどそれでもベストではない。

さらに、「世の中にはちゃんと、ベストを尽くせる人が存在するんじゃないか」という劣等感みたいなものがつねにまとわりついている……


「もっとここをこうすればいいのに」

というアドバイスはいつもいただくんですけど、そこまでは手が回らないということも多々ある。

「あ~やれることやってもうやること思いつかない、でも体力余ってる」みたいな時には「ここをこうしてみたらもっといいよ」と知りたいんですけどね。あんまりそういう状態のときないですけどね。

2018/5/29

だらだらしてしまっている。

忘れ物をなくしたいと、日々工夫をしているがなかなか改善しなくて、

外出にはカメラを持っていきたいと思っているので、外出時必ず見る・玄関に近い場所にあるテーブルに用意する。いつもは大体これで行けているのだけど、今日はほかに気を取られる案件があったために忘れてしまった。

まあいろいろと忘れ物防止策はあると思うのだけど、ヒトからアドバイスをいただいたところで、自分の身につかないとうまくいかない。メモを貼っておく、とかだってメモを観るっていうもう一つの新しい習慣をやれるようにならなくちゃいけないわけで。

カバンにずっと入れておくというわけにはいかない。写真は撮るだけじゃなくて何かに使うわけだから、毎回撮った写真をPCに移しているし、たまには充電だって必要でしょう。

PCに画像を転送するのはwifiで自動的にするとか、いろいろ解決策はあるけど、だれもがベストと思われる環境を用意できるわけではなく、そこを工夫で何とか補っているけど完ぺきではないという話だよね。


スマホは持ってないの? スマホで撮影すればカメラを持っていなくてもいい。

っていうアドバイスもたまにいただくけど、スマホのカメラじゃなくて別のカメラを持って行って撮影したくてそれを忘れたら困るって話なんだから解決方法になってないんだよね~。まあまれに「気づいてなかった!!」って言うこともあるけどさ……


アドバイスをいただいて、それは思いついても選ばないやつです、とか言うのをどうすればいいのか悩む。

・そのアドバイスをどうするかについて言及しない

・選ばなかった理由を説明する

・その場だけ「ぬぁ~るほど~!」と参考にしそうな雰囲気をだす


どれもなんかもやもやする結果に終わるんですよね。

まあいいけど(締めの言葉)

2018/5/28 健康の話は取り扱いがめんどう

だれでも、知っている話題についてはくちを出したくなるもんですが、健康の話はさらに面倒なんですよね。

まあ私も人のことを言えないのですが……

やっぱり何かが改善した経験って心に残っちゃうんだよね。それが根拠もわからないものだとしても、根拠がわからないからこそ「試してみる価値あるかも」って思っちゃうというか。

薬だって人によって効き方が違ったり相性がある……ような気がするもんね。

でも麻酔とか、効き方が人によって違ったらダメなものもあって、ちゃんとコントロールできているのだから、そういう薬もあるかもしれない。ただし専門家が扱う場合の話ですよ。

だからやっぱり、素人がどんなに「自分には効いた」って思っても、もともとそのために作られたもの以外は「たまたま」「別の要素」だったりするかもしれないから、他人には薦めないほうがいい。


つい昨日も、

「Aという症状は本当につらい。理解してほしい」

というだけの話題に

・AがつらいのはBのせいです、Bをやめましょう

・Cを使うとだいぶ楽になります

・Dは本当にいいですよ

と、数々の改善方法が。その話題は繰り返し見るので、Bの話とC、Dの話を出す人のことを私は信用しません。まあ「自分はそれを使ってます」ぐらいならいいし参考になるかもしれない。でも「あなたもそうしなさい」は言いすぎている。

もっと言えば、「つらさを理解してほしい」という話なので、つらさの改善とかそういう話ではないのをまず考えなくてはいけない……

2018/5/23 山岳遭難の教訓

数日前、とある人が登山中に亡くなってニュースになっていた。

ネットではよくその方のことが話題になっていたので、今回の遭難もやはり話題になった。

私もその人のことは前から知っていたし、登山とか山に興味があって本をいろいろ読んでいる私なので、その方の登山スタイルとかの話題もチェックしていた。

 

亡くなってしまったらもう言葉がでない。やはり今回の遭難にたいしても、中には

「山に何度も登ろうとしていた。山が好きなんだろう、だから山で死んだことは本望かもしれませんね」

とこういうニュースで見かける「いつものコメント」がちらほらあった。

前にもこの日記(旧のほう)で書いたと思うけど、山で死ねて本望な人はいないのですよ。死ぬまで山に登れたと言うことは望んだことかもしれないけど、山で死ぬことを望んだわけではない。どんな遭難体験の本を読んでも、みなさん「帰りたい、生きて下山したい」と思っている。「もしかしたら山で死ねるのは本望かもな」なんて思ってる人はいなかった。生きて帰ってきた人しかそういう気持ちを語れないから、亡くなった方の中には本望の方もいたかもしれないが、死者の気持ちを推測するのは私は好きじゃない。


亡くなってしまったことで、「いまさら言っても」という感じもあり、登山の方法が安全だったのかとか、こうすればよかったなどは言いにくく感じるかもしれないし、実際「もう死んでしまった人にあれこれ言うのはやめなさい」という意見の方もいた。

まあ私もそういう気持ちもあるけれど、山岳遭難の場合は、今後も人が山に登ろうとする限り、遭難に至った状況や、今後の対策などは探求・分析されることになる。100%安全ということはないことだからこそ、どうすれば安全に近づけるのか、また、アクシデントがあった際はどう対応すればいいのか。何が人の死につながったのかを考えなくてはいけない。

亡くなった人や遺族、関係者にとってはつらいしそっとしておいてほしいことだろうけど、遭難に関しては先人の経験を生かせる分野だから、また細かい「なぜ?」を調べた記事などが出てくるだろう。


こちらの本もそういう遭難に学ぶ本だ。

トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか

このようにひとつの事件を、だれがどのように動いて最終的にどうなったのか多角度から見た分析もある。登山者、ガイド、ツアー会社。


エベレストの遭難と言うのはあまり身近な話題ではなく、国内で山に登る登山者には参考にできる部分も少ないとは思うのだが、人が一人エベレストといういろんな意味で特別な山に、登る、登らされる、登らなくてはならない、そして観客がいる、観るものや支援・応援するものの期待は? そういうまさに「多角度」から遭難に至ってしまったいきさつを分析して問題点を浮き彫りにしないと、次の遭難者が出てしまうんじゃないか。