2018/3/14

まあ人にはいろんな考え方があって、全部の考え方を一人に取り込むことはできないし、つまり、全部の考え方を実践する人と言うのはあり得ないわけで(変化させたらその時代ごとに違う生き方をするかもしれない)

ということは、考えが違う・立場が違う・行動が違う人がいるということは当たり前の話だと。

で、誰かが自分の考えを語っていたら、自分一人では経験できない別の生き方や行動を、言葉でだけど知って、ある程度考えたり実感できたりするということで、話を聞くのは良いことだなと思う。

ただ、語るのは良いし、自分はこうだと固く思うことは良いけど、ほかの人が違うという理由でなじったり直接説得しようとしたりするのはあまりよくないなと感じている。


実際はね、私も「この人がこういう考えなのは、まだ私が知ってるアレを知らないから考え方が変わってないだけで未熟なんだ!」と思ってしまって、私の考えを伝えたらきっと相手を変えられる、とか思ってしまうこともあるけどね。

もう一歩踏みとどまったほうがいいだろうなあ。


なぜこんなことを言い出したかと言えば、狩猟をやるひとのブログにコメントで、ヴィーガンを名乗る人が「狩猟は悪。やめてほしい」と言って、そのやりとりを見たから。

狩猟の方の人は、命を狩ることについて、食と、生命についてを一通り考えたことがあるようで、

ヴィーガンを名乗る人は、動物を殺さないと決めた時から、それ以上のことを考えていないように見えた。いや、考えているのかもしれない……だからわかんないんだよね人の頭の中は。見えないんですよ。でもさ。

狩猟の人「野菜を食べることだって同じ命ですよ」

野菜の人「野菜が同じ命とかありえない。動物の首と、キュウリの折れたのが同じですか? それ子どもにもそういえます?」

っていうやり取りを見ちゃうと……冷静な人に味方したくなってしまうんですよね。

無駄にしない、飽食しないっていう方面で、さらに野菜を選んで食べている。という人に「肉も食いなよ、おいしいし」とは私も言いませんよ。

狩猟の人が言っていた「菜食主義の方が増えると、畑を作るため・畑を守るために動物が邪魔になってしまい、駆除することにもつながります。それは知っておいてください」という言葉のほうが「なるほど」と私には新しい話として心に留まった。


別の話ですが、ヴィーガンの人は革製品もつかわないと言う話を見た時、

「クラゲは多くのビーガンが殺したり食べたりしても大丈夫な数少ない動物の一つ(クラゲは気づいていないから)」というのを読んで、そういうものなの?と疑問に思ったこともあったり。(もちろんクラゲも食べない・つかわないヴィーガンもあるとも読みました)

読んだサイト:Bentley to Trim Cars in Jellyfish Leather

 

2018/3/12 肯定と否定

まあいつも通り、ちょっと思ったことをメモる感覚で書いてしまいますが。

・何かを肯定することを多く発信する人

・何かを否定することを多く発信する人

存在しますよね。「世の中には二つの人間がいる、肯定する人間と否定する人間だ」とまではっきり分かれる話ではなくて、多くの人は否定したり肯定したりするもの。どちらに偏るとかもあんまりなく。

ただ、中には、肯定の時のみ発信するように心がけている人もいますね。心がけじゃなくて無意識の人もいるけど。

「これは自分も同意します!」「これ、僕も好きです!」という話の時に発言する。まあ、否定するのは読んだだけでも不快になる人もいるし、無駄に議論になってしまったりするから、私もこちらに近いかな。好きなものの話ばかりしている。それだけでも話題が持つほどいろんなものが好きだということもある。わざわざ嫌いなものについてとか、反対意見を述べたりとかしない。

肯定ばかり言うのがいいことだと言いたいわけではない。

私は肯定意見ばかりの人も、否定意見ばかりの人も、両方「得体がしれない・つかみにくい」と思っているからだ。


……と言いながら、その中でも否定意見しか言ってるところを見ない人と言うのは、肯定型の人より輪をかけて得体がしれないなあと感じたのだ。

キャラクターがつかめない。怖く感じてしまう。

ちょっとこの感覚を深堀してみると、どうやらいくつか理由がありそうだ。

・自分も否定されるかもしれないから認識されたくない

・いろんなジャンルで反対意見を言っているので、行動範囲が読めない


他にも思いついてたのに、「どうやらいくつか理由がありそうだ」って書いたあたりで思いついてたことをまるっきり忘れてしまった(ひどい)書いてみた二個も「こうだったっけな?」って感じで書いてるのでイマイチ……

なんかを思い出したたらまた追記します……

イラストの新作

 

イラストの新作描けました。

まずは沈丁花が春を告げる by 藤村阿智 on pixiv

春らしく。

もっとふんわぁ~って感じにしたかったけど、ドロドロ重たい絵描きのわたしが描くと、どうしても重たい絵になってしまうんですよね……

その後の加工でなんとかキラキラ感をだして頑張ってます。

 

2018/2/28 ニューロティカ

ニューロティカというバンドの公式動画がいろいろありまして。

それでMVを見ています。かっこいい。

カッコいいと思う音楽をやってる人がみんな50代だし、本当にかっこいいから、私もまだまだ頑張れるし、もちろん彼らのかっこよさは昔からずっと続けているというところにもあると思うので、続ける気力も沸いてきます。

かっこいいす!!!

ニューロティカのボーカル・あっちゃんといえば、思い出はオーケンのほほん学校にゲスト出演を何度かしていて、(そこで知ったわけですが)

阿佐ヶ谷ロフトで入場待ちをしていたら、バーカウンターの中にあっちゃんがいて

「こんばんは~ようこそ~!」みたいに声をかけながら、にこにことその行列を眺めてたんですよ。「おおっあっちゃんだ!!すげえ!」と思いました……ほんと

 

2018/2/26 若い人のことを思うとき

自分もいい年になってきて、

「おなじ大人」の中にも幅が出てきてしまった。だいぶ年下の人も同じように社会人だったりすると、ギャップが出てくることもある。育った時代が違うんだから見えているものが違うだろう。

ほんの数歳の違いでも、子どものころの話になるとギャップは増えてくる。立場や能力があまりに違いすぎるからだ。

小学生の時に見たオリンピックは、お兄さん・お姉さんの活躍の場で、自分も目指せる何かかもしれない。

高校生で見るオリンピックは、同世代の、自分とは違う目標を持って同じ年月を過ごした人がいることを知るかもしれない。

大人になってから見るオリンピックは、年下の、もう自分とは全く違う世界にいるすごい人の話に見えるかもしれない。


でも、どうも普段私やその他いいおとなのみんなは、たまに自分とギャップがあることを忘れて年下のことを気にしてしまうことがある。

自分と違うことをやっているような、頑張りが足りないように見えたり、しんどそうに見えたり、楽しそうだったりくだらないものを大事にしたり、そんな風に違って見えてなにか言いたくなる時がある。

「私の若いころは……」(そしてそれはつい最近に思えていて、世界は同じものだと思ってしまっている。まあつながっているのは本当だ。)

私は「なんか違うな、今の若い人って。私がそのくらいの年のころって……」とか考えだしたとき、口に出す前にいったん考えてみることにした。

それは何年前だ?そして私がその若者の年で、同じ年数さかのぼった時どういう世の中だったのか?


子育ての方法が違う。と思った時など、例えば50代の人が30代の子育てが自分のときと違うと思ったら、自分が30代で子育てしてるときに20年前の子育てを持ち出されたら

「だいぶ時代が違うな」

って思わない?

結構いい感じに「自分が何を言おうとしているか」客観的に考えられる方法だと思う。

何度かやってると、うかつに「私の時はこんな風で、それは良いものですからあなたもやりなさい」とか言えなくなるのです。