昨日の日記はタイトルに書いたような人がさらに他罰的になって、
「あいつは懲らしめられても仕方のない、懲らしめられる理由がある人間だ」
と思いすぎちゃうのは良くないという話だったんだけど、
藤子・F・不二雄先生の「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」という短編はそういう人が主人公なんですよね。
こういう極端な人や状況が日常に入り込むとどうズレるかっていうお話が本当にすごいんだよなあ。まあ、つまりギャグだってことですよ。周りとズレている。やりすぎる。ということははたから見ると滑稽なわけです。
ウルトラ・スーパー・デラックスマンは、平凡なサラリーマンだけどまじめな性格で、世の中の悪を正したいと考えている 男が、ある日大きな力を手に入れて、その力を世のためひとのために使い、世界を良くしようとするお話なんですけどね。
なにかの理由で行動を正当化できる人は、悪さを正当化する力も持っているのだなあと。自分が手を汚してしまうのは、あいつがそうせざるを得ない悪だったから。
自分がいい思いをできるのは、悪を倒すのと引き換えの報酬だから。
些細なことだったら普段から私たちがやっていることなんだなあと思う。力がひとに影響を及ぼさない程度だったらいいんだけど、誰かに影響するほどの力があるひとが他罰的になるとおかしなことになってしまう。
短編なのでさくっと読めてしまうから、オチのネタバレも何もないけど、最後のシーンで「バチが当たったんだな」と思っちゃった場合は読者自身もギャグになってしまう……スカッとするのか? モヤっとするのか? ひとだけでなく、読むタイミングによっても変わりそう。
力をもった正義の人の極端な世直しと言えばデスノートとかもそうだよね。
自分が正しいと思ってる人にちからが渡った場合はそういうことになる。歴史の中でもそうなのかも。みんなわりと、「これは正しいことであり、多くの人のためになる」と考えているから極端な行動をとれるわけですよ。
いちいち「これはただしいのか?他方から見れば悪そのものではないか?少数を切り捨てるのか?犠牲を出すのか?」などと考えていたら何も物事は進まないのかもね。
まあ私は自分の人生ぐらいは、なにも物事が進まなくても犠牲や切り捨てを最小限にしていけたらな……と思ってますよ……そうはいってもいろんなものを下敷きにしなけりゃ立っていられないんだということも自覚しなくちゃね……あんまり考えすぎると病みそう、究極に、正義は「全員がしぬとやくそくして自分もしぬ」ことでしかかなえられないのかもな???