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あしたの痕跡[3]

 次の依頼人の家からは、もう線香の香りはしませんでした。玄関のチャイムを押すと、若い奥さんが出迎えてくれました。
「有限会社あしたの痕跡駆除の者です。どなたかのあしたの痕跡が残っていたと聞いてやってきました」
私が丁寧に挨拶をすると、奥さんは軽く笑顔を見せて
「お待ちしておりました。中へどうぞ」と私を家の中へ入れてくれました。

「どなたがお亡くなりになったのですか」
「私の……息子です。四歳でした」
奥さんは寂しげな表情をしました。私にも一気に悲しさが押し寄せてきて、
「それは……なんと申し上げたらよいか」と言葉を詰まらせました。
「いいんです、あの子が亡くなったのはもう理解しているつもりです。ただ、おかしなことがありまして」

 ここでも、なにか異変があるらしい。ただむやみに「あしたの痕跡」の噂を信じているだけではなさそうなので、私の興味を引きました。
「おかしなこととは、どんなことですか。良ければお話ください」
「とても奇妙です。あ、こちらが子ども部屋です。押入れがわりに使っているのですが… …
オモチャもしまってあったので、あの子はよくここで遊んでいました」

 奥さんは子ども部屋の扉をしずかに開けました。なるほど、夕日がほどよく窓を照らして、
今にも子どもがおもちゃの影から出てきそうな雰囲気の部屋です。
「あの、ちいさなリュックが奇妙なものなんです」
指差す方向には、オモチャにまぎれて小さな子ども用のリュックが置かれていました。

「私の息子が亡くなった翌日は、保育園の遠足の予定でした。遠足といっても近所の公園 でお弁当を食べるだけなんですが、
息子は楽しみにしていました。それで、オモチャで遊ぶときにもこの部屋にリュックを持ち込んだのだと思います」
奥さんはしずかに、ゆっくりと語ります。私は切なくなって胸が締め付けられる思いでし た。

「息子さんは、どうして亡くなったのですか」
「夕方、近所のお友達の家から帰ってくる途中に、事故にあいまして」
「そうでしたか……」
少しの間、黙ったまま薄暗い部屋をみつめていました。
奥さんは小さなリュックの横に座って、入り口に立っている私のほうを見ながら、またゆっくりと話し始めました。

「このリュックがおかしいんです、見てください」
奥さんはちいさなリュックの中から、バナナを取り出しました。
私は最初、よくわからずにただ黙ってバナナと奥さんの顔をかわるがわる見ているだけでした。
「このバナナは、息子にせがまれてリュックに入れてあげたものです。
きれいでしょう、あの子、少し青みがかかった硬めのバナナが好きだったんです」

「そのバナナが、なにか」
「息子が死んだのは、もう三ヶ月も前のことなんです」
私の背筋がぞくっとして、つむじまで震えるのがわかりました。
バナナはまるで、さっき青果店で購入したばかりのような青いバナナです。
とても三ヶ月も、このリュックに入れっぱなしになっていたとは思えません。

「全然気がつかなかったんです、ここにバナナが入れっぱなしになってるなんて。
ずっと、息子が死んでしまったことを悲しんで、このリュックをさわることが出来たのもつい最近のことです。
バナナが腐ったら、においでわかったのでしょうけれど」

「そのあしたの痕跡を駆除しましょう」
私は奥さんの目を強く見て、そう言いました。奥さんも納得して、一緒に時間のよどみを断ち切るまじないをはじめました。
すっかり暗くなった部屋の電気をつけて、私たちは一生懸命祈りました。
この止まった時が早く動くように。バナナをあきらめても、小さな男の子のことを忘れないと誓いながら……

 しずかな部屋に、奥さんの踊るような影がゆれ、ハサミの音だけが響きました。
「それでは……バナナの時間は動き出したと思います。まだ腐らないようでしたら、もう一度私を呼んでください。
息子さんにもバナナは大丈夫だと伝えてあげてください」
私は立ち上がり、玄関から出て行くときに奥さんに言いました。
奥さんはまた優しい笑顔をみせて、礼を言ってくれました。私も頭をさげて車に乗り込み、依頼人の家を後にしました。


 今日は驚いたな、断ち切らなくてはならない未練や時間のよどみは確かに存在している。
どうしたら存在するのか、キチンと断ち切るにはどのようなことが必要か。
私は真剣に考えました。これからの仕事はさらにやりがいが出てくることでしょう。
今まではペテンまがいの仕事だったのですが、にわかに『あしたの痕跡』が真実味を帯びてきました。

狭い範囲でもこんなに困っている人が居るのだから、世界にはたくさんの『痕跡』が残されたままになっているだろう。
もしかすると、そのことに気がついているのは私だけなのかもしれないのです。
はやる気持ちを押さえようとしましたが、胸の鼓動は早まるばかりで、
ハンドルを握る手もあせります。そしてそれは、あっという間の出来事でした。

 カーブをまがるタイミングを間違ったため、私の運転する車は電柱に激突してしまったのです。
あたりは夜の闇より暗くなり、周りの音は次第に小さくなっていきました。

 ――私は死んでしまったようです。
これから『あしたの痕跡』の謎を考えていくつもりだったのに。
意識だけになって、死んだ体を眺めていました。
周りにはふわふわと、光がたくさん同じ方向へ流れていきます。

「この光は、なんだ?」私が独り言のようにつぶやくと、光のひとつが答えました。
「君も同じように、光ってるよ」
「君達は何処へ向かってるんだ。私もそちらに行くのか」
光はゆっくりと、私のそばを通り過ぎながら答えました。
「そうだと思うけど、君の時間はそこで止まってしまっているよ。私たちは、時間の流れ に乗って進んでいるだけなんだから」

「私の時間が止まっている?」
答えてくれていた光は、私の問いかけにはもう答えられないほど遠くへ流れていってしま いました。
「もしかすると、『あしたの痕跡』を残しているのかもしれない」
そうだ、思い出しました。私のメモ帳には、明日一番に出かける用事が書いてある。
あそこへ、私の過去にならない未来を置いてきてしまったんだ。

 どうか、誰か気づいてください。
私のために祈り、あのハサミを鳴らしてください。
 私は止まった時間の中で、悔やみました。
同業者にも会社のものにも、『あしたの痕跡』を駆除する方法を伝えていなかったことを。

end

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(c)AchiFujimura StudioBerry 2005/12/10(執筆日・2005/9/30)